『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART 2』が歳月を経ても色あせない理由とは?

この時代、つまり現代を舞台にしたシーンを監督自身は撮影したくなかったと語っているのは、なんとも皮肉的な運命のいたずらだ。三部作のBlu-ray DVDの音声解説の中で、監督はそうしたシーンについて「全シリーズの中でも一番撮影していて楽しくなかった。未来をあれこれ予想する映画は好きじゃないんだ」と語っている。その気持ちは頷ける。偉大なる映画のレガシーが、連想クイズのようなものに成り下がってしまうからだ。的外れで滑稽に見えるか、さもなくば、正しいけれども時代遅れに見えるか。いずれにしても、作品の善し悪しなど誰も気にとめない。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART 2』にもやはり空飛ぶ車が出てくるが(ロケットランチャーつきのジープ!)、それ以外の未来のシーンは、これまで見たことがないにしても、大したものではない。アルヴィン・トフラーの有名な理論『未来の衝撃』――人は未来の世界に圧倒され、いきなり未来に放り込まれたことで情報過多になり、身動きできなくなる――とは対照的に、マーティ・マクフライは学習曲線が見た目ほど急ではないことを知る。『ジョーズ19』の看板から飛び出して、今にも食らいつこうとするホログラムのサメに度肝を抜かれつつも、直ぐに気を取り直して一蹴する(「いまだにサメはちゃちいんだな」 聞いたか、スピルバーグ!)。最初はホバーボートがなにかも知らず、グリフの空飛ぶ荒くれ集団に追いかけられたときもさっぱり使い方が分からなかったが、なんとか要領をつかんだ。マーティの得意分野ではないかもしれないが、結局彼はものにした。



カワイさ満載のパステルカラーとゲームギア風のクールさで、2015年のヒル・ヴァレーは楽しいの一言。というのも――偉大なパロディの例にもれず――観客はジョークの対象が分かって初めて、笑いのツボに入ることができるからだ。マーティの未来の家の台所にはピザ・ハイドレーターが備わっているとしても、アットホーム感は変わらない。何よりも、『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART 2』は恐ろしいほど今とそっくりだ。未来とは我々の日々の経験であり、いざ未来がやってくる頃には現在とほとんど変わらなくなることを、ゼメキス監督も知っていたのだ。

●史上最高の「タイムトラベル映画」20選

世の中とはつねにそういうものだ。フォード・モデルTは1908年に登場したが、1910年には1万2000台以上が街を埋め尽くした。iPhoneが登場したのは2007年だが、2009年にはカラーバリエーションがないという不満の声がすでにあがっていた。トフラー氏は間違っていた。我々は急速なテクノロジーの進歩に衝撃を受けたりなどしない。逆に日常生活に素早く取り込まれるからこそ、進歩は可能になる。「未来へようこそ!」の衝撃の後は、「目を見張るものばかりだが、誰も満足できない」という状態が一生続く。

だからこそゼメキス監督は、明らかに寓話的なディストピアを描くのではなく(最近はそういうのが流行りだが)、誰の目にも魅力的な未来観をすでに飽き飽きしている人たちの倦怠感と結び付けることで、自らをタイムトラベラーの立ち位置に置いたのだ。音声認識マシン、ウェアラブル・テクノロジー、フラットスクリーン・テレビ、80年代への手放しの郷愁……映画の中の2015年と実際に我々が経験している2015年の最大の違いといえば、イライジャ・ウッドの身長が数十センチ高いことぐらいだ。カブスが今年ワールドシリーズで優勝することはないだろうが、今夜の試合でチームがワールドシリーズ進出を絶たれれば、やはり大騒ぎになるだろう[訳注:ちょうどこの日、リーグ優勝決定戦の最終日が行われた]。風景投影装置も、今現在たしかに存在する。グリフから逃げようとするマーティを見たビフのセリフそのものだ。「どこかで見たような気がするぞ」

SF映画の傑作の大半は、時が経つにつれてより現実味を増すものだが、これほど愉快な雰囲気をいまだ保っているものはほとんどない――おそらくそれが、時間軸を乱す危険を冒した映画がたどる当然の運命なのだろう。この作品は過去30年間、集合的無意識と固くつながってきた。その理由は、人々が昨日と同じように明日もまたこの映画に強く惹かれるのと同じ理由だ(それほど多くの類似品は発生していないにしても)。未来を描いた映画はどれも、実際には現実を描いている。その中でも『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART 2』は、決して色あせることのない稀有な作品のひとつだろう。

Translated by Akiko Kato

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