スティーヴィー・ワンダー最高傑作『キー・オブ・ライフ』知られざる制作の裏側

スティーヴィー・ワンダー『キー・オブ・ライフ』のジャケット写真

スティーヴィー・ワンダーはどうやって問答無用の大傑作を作り上げたのか。1976年に発表された『キー・オブ・ライフ』 (Songs in the Key of Life) の制作背景を辿る。

「目が見えないからといって思い描くことができないわけじゃない」。スティーヴィー・ワンダーはそう言って、彼の想像力の可能性を疑う全ての人に警告したことがある。1970年代前半、ワンダーはまだ試していなかった音楽の方向性を思い描いていた。その道は、モータウン初期の「神童リトル・スティーヴィー」時代の画一的ポップスからはるか遠くまでワンダーを導き、最終的に1976年の壮大な『キー・オブ・ライフ』へとつながった。21曲から成るこのアルバムは、当時26歳だったワンダーの最高傑作となる。それは若く才能溢れるアーティストが創造的な意味で解放され、自分自身の熱意に身をゆだね、自らのパワーとポテンシャルを発揮した音楽だった。

『キー・オブ・ライフ』は、『心の詩』(1972年)、『トーキング・ブック』(1972年)、『インナーヴィジョンズ』(1973年)、『ファースト・フィナーレ』(1974年)を含む、ワンダーのいわゆる"クラシック期"の卓越した連作の頂点を極め、それまでの全作品の集大成となった。モータウン設立者のベリー・ゴーディは、1997年のドキュメンタリーで「スティーヴィーは自らの人生経験を全て『キー・オブ・ライフ』に注ぎ込んだ。それが功を奏した」と当時を振り返っている。



史上最高額の契約

ワンダーは、モータウンと11歳で契約し、10年間着実にヒットを出し続け、今や自信に満ちた大人に成長していたが、「25歳の危機」の不調に襲われ始めていた。スーパースターとなったワンダーは音楽業界から完全に身を退き、自分のルーツがあると信じるガーナへの移住について公の場で語るようになっていた。ワンダーは、かの地で障がいを持つ子供たちやその他の人道支援に全てのエネルギーを注ぐ計画を立てていた。鮮やかな色に染められたダシキ・チュニック(主に西アフリカで着用されている民族衣装)がモータウン・スタイルのモッズスーツに取って代わり、ワンダーの内なる変化は外見にも現れるようになっていた。

1973年のローリングストーン誌のインタビューで、ワンダーはアフリカの国々が持つ魅力について簡単に触れている。そして程なくして、その思いはより具体性を帯びるようになり、3月にロサンゼルスで開いた記者会見では、レコード契約の切れる1975年の終わりに最後のコンサートツアーを開催し、その収益は全てガーナのチャリティ資金に充てる予定だと発表した。

「アフリカの国々ではかなりの支援が必要とされていると聞いている」と、ワンダーはAP通信に語った。「利他的な支援が必要だ…歌ったり語ったりすることができても、行動が伴わなければ何もしていないのと同じだ」立派な発言だが、ドラマチックな別れの言葉は、モータウンとの契約の再交渉で相手にプレッシャーを与えるための作戦と見る皮肉な向きもあった。

だが、ワンダーにはそんな作戦は無用だった。ゴーディ帝国は、1970年代前半には音楽的趣向の変化や経済の低迷によって大打撃を受けていた。最も堅実な売れっ子が、慈善活動に残りの人生を費やすか、もしくはエピックやアリスタといったライバル社からの有利なオファーを受けてしまうことを危惧していたモータウン社長は、莫大な資金を動かす準備をしていた。

ワンダーは、ジョナサン・ヴィゴーダという敏腕弁護士に、モータウンの新社長エワート・アブナーと会長のゴーディとの途方もなく長い契約事項の交渉を依頼した。ゴーディは「最も骨が折れ、神経がすり減る」交渉だったと手記に記している。問題を解決し、書類に署名して7年契約が結ばれ、ワンダーには1300万ドルの前金(と、最低でも1年に1枚アルバムをリリースすれば最高3700万ドルまでの純益)と20パーセントの印税、出版物管理の権限が約束された。音楽業界では史上最高額の契約だった。タイム誌は、エルトン・ジョンとニール・ダイアモンドの契約金を合わせた金額を上回ったと報じた。

1997年のドキュメンタリー『メイキング・オブ・キー・オブ・ライフ』で、ゴーディは「1300万ドルは当時としては破格だった」と嘆いた。「史上最高額が支払われた前代未聞の契約だったと聞いているが、そうせざるを得なかった。スティーヴィーを失うことだけはできなかった…ブーツの中で脚が震えていたよ!」。

Translated by Rolling Stone Japan

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