不条理な世界と闘った、音楽史に残る「反逆のアイコン」15選

7. カート・コバーン


「世代の代弁者」が持っていた社会への視点

ニルヴァーナがローリングストーン誌の第628号の表紙を飾ってくれることになったとき、カート・コバーンが着たTシャツにはこう書かれていた。「商業誌はやっぱり最悪だ」短い生涯において、彼は信念を疑うことを自らの使命とした――ファンの信念を、そして彼自身の信念を。学生のころ、彼は同性愛者の子供と親しかった。クラスメイトは彼も同性愛者ではないかと信じ込んで嫌がらせをしてきたが、その嫌がらせも楽しんでいたと嘯いた。後年、彼が有名になったとき、バンドは堂々とLGBTの権利を擁護したが、オーディエンスは必ずしも賛同してくれたわけではなかった。コバーンにとって、成功は解くことができないパズルだったが、彼にとって意義深い社会問題――いじめ、リプロダクティヴ・ライツ[訳注:子供を産む・産まないを自ら選択できる、生殖に関する自己決定権]――について語る演台を手に入れもした。それでも彼は自分のバンドがアンダーグラウンドから現れて、メジャーレーベル所属のロックグループに収まったことをひどく嫌っていた。「最悪の罪とは人を騙すことだ」とかつて彼は語った。そして、彼は自らを有罪とみなしたのだった。

●カート・コバーンが残した12の名言



8. ビクトル・ハラ


愛と正義を歌い、独裁政権に殺害されたチリ人歌手

チリのフォーク・シンガー、ビクトル・ハラによる愛と正義の歌は、1973年のクーデターを率いた軍の指導者たちにとってひどく脅威であったらしい。そのためハラを殺さなければならなかったのだ。劇場でキャリアを開始したのち、彼の祖国が1960年代の社会的動乱を耐えぬくなかで、ハラは作曲に取り組んだ。彼は社会主義者の大統領候補サルバドール・アジェンデを支援したが、アジェンデはチリの右翼の手によって公職を追われ、後に不可解な状況下で亡くなった。数千の人びとと共に、今や彼の名前を冠しているスタジアムに囚われ、ハラは拷問を受けた。両手を砕いたのち、彼らはこの歌手をからかって、ギターを弾くよう命じた。反抗的にも、彼は「私たちが勝つ(Venceremos)」と訳される政治的なアンセムを歌ってみせた。こうした不服従のために、ハラはマシンガンで蜂の巣にされて亡くなり、遺骸はサンチアゴ郊外の通りに投げ捨てられた。数カ月後、ボブ・ディラン、ピート・シーガー、そしてフィル・オックスは、ハラの名前を冠した慈善コンサートをニューヨークにて開催した。




9. ジェリー・リー・ルイス


型破りな元祖ロックンローラー

いとこであるテレビ伝道師のジミー・スワガートと同じく、ジェリー・リー・ルイスはきちんとした信心深い家庭で育った。勉学のためにサウスウェスト・バイブル・インスティチュートに送り出されたこの新進エンターテイナーは、ゴスペルのスタンダード楽曲をブギウギにアレンジして演奏したために追放されてしまった。この出来事が、罪と贖罪の狭間に行きた彼の生涯のトーンを決定したのだった。彼の最大のヒット曲、「火の玉ロック(Great Balls of Fire)」や「ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン」は、あからさまにセクシュアルな暗示のために放送禁止になることもあった。13歳の従姉妹マイラ・ゲイル・ブラウンとの秘密裏の結婚が報じられると、ルイスのキャリアは深く冷え込んだ。型破りなロックンローラーのオリジナル世代のひとりであったザ・キラー[訳注:ルイスの愛称]は、60年代末にはロックンロールに背を向けてカントリーシンガーに転向した。「もし地獄に行くのなら」とかつて彼は語ったことがある。「そこにピアノを弾きに行くよ」


Translated by imdkm

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