追悼エディ・ヴァン・ヘイレン、ギターと共に歩んだ65年の人生

ワーナー・ブラザースはこの変化に確信が持てず、以前のバンドとの差別化を図るためにバンド名を「ヴァン・ヘイガー」に変えることを提案した。「変えていたら面白かったかも。今思うと、あのバンドの2つの時代を区別する方法がそれだったかもしれない。でも、俺が入ったことで出来るあれこれを考えたとき、俺たちは何も恐れていなかったんだよ」とヘイガー。

ロス抜きのヴァン・ヘイレンは続かないと考えていた人たちは、1986年3月にそれが間違いだったと知ることになる。新作『5150』がリリースされて、ヴァン・ヘイレン初のナンバーワン・アルバムになったのだ。そして、アルバムがチャートトップへ駆け上がる現象は1988年のアルバム『OU812』、1991年の『FOR UNLAWFUL CARNAL KNOWLEDGE / F@U#C%K』、1995年の『バランス』まで続いた。バンドのコアなファンの多くはロスがいた時代のヴァン・ヘイレンの方を好んでいるのだが、ヘイガー加入によってバンドの人気は上がり、「ドリームス」「ホワイ・キャント・ディス・ビー・ラヴ」「パウンドケーキ」などの大ヒット曲がバンドにもたらされたのも事実だ。

しかし、『ツイスター』のサウンドトラックへの参加がきっかけで、バンドは崩壊し、メンバー同士の争いが始まった。彼らは長いツアーを終えたばかりで、サミーは妻と新生児との時間を持つために休暇を望んだ。しかし、バンドは休む間もなくスタジオを入ることに決めた。ギター・ワールド誌にエディはこう語っていた。「俺はヤツに『サム、次のレコードを作りたいとか、次のツアーをしたいと思うなら、チームプレイヤーに徹しなきゃダメだぜ。ヴァン・ヘイレンはバンドなんだ。サミー・ヘイガーが主役のライブじゃない。エディ・ヴァン・ヘイレンが主役でも、アレックス・ヴァン・ヘイレンが主役でも、マイケル・アンソニーが主役でもない。するとヤツがやっと『ああ、チクショー、マジでイラつく。俺、ソロに戻りたいよ』と言った。俺は『正直に教えてくれてありがとう』って応えたよ」。

コンピレーション・アルバム用に2曲レコーディングするためにロスが戻ったのだが、MTVビデオ・ミュージック・アワードの楽屋での口論がきっかけで、その計画も立ち消えた。そして、ヴァン・ヘイレンと同じマネージメント会社に所属するエクストリームのフロントマン、ゲイリー・シェローンが3番目のヴォーカリストとしてバンドに加入することとなった。1998年のローリングストーン誌で、エディは「車を降りた瞬間にこいつだと思った。わがままもエゴも一切なかったから」と述べた。

しかし、1998年の『ヴァン・ヘイレンIII』はファンに受け入れられなかった。このアルバムでのツアーも場所によっては客の入りが悪かったため、ツアー終了後にシェローンには解雇通知が手渡され、ヴァン・ヘイレンは長い活動停止に入る。2004年にヘイガーと再結成ツアーを行って再び表舞台に戻ったとき、エディはアルコール中毒の末期症状に陥っており、挙動不審さも極まっていた。「彼は舌を液化して体内に注入して(舌ガンを)完治したと言っていた。また、人工股関節置換術をしたとき、手術中ずっと起きていて、医者がドリルで穴を開けるのを手伝ったとも言った」と、ヘイガーが自身の回顧録で明かしている。

この再結成ツアーはグダグダのパフォーマンスと酷評で目も当てられないものになった。そして、このツアーが終わって1年ちょっと経った頃、バーティネリは離婚を申し立てた。2007年にバンドがロックンロールの殿堂入をしたとき、エディはリハビリ中ということでセレモニーを欠席。同年の後半、バンドは遂にロスとの再結成を果たしたのだが、マイケル・アンソニーを脱退させて、まだ10代のエディの息子ウルフギャングをベーシストとして加入させたのである。

2012年、ヴァン・ヘイレンは遂に新作『ディファレント・カインド・オブ・トゥルース』をリリースしたが、収録曲の多くが1970年代のデモ曲が元になっていた。2012年にこのアルバムのプロモーションでツアーを行い、その3年後にもアメリカ国内の円形劇場を回るツアーを行った。しかし、エディはロスと一緒に新曲を作るのはほぼ無理だと言った。「無理だね。だってバンドの4人のうち、俺たち3人はロックンロールが大好きだし、残りの1人はダンス・ミュージック好きなのさ。以前はそれで上手く行ったけど、今ではデイヴは話し合いにすら応じない」と、エディは2015年にビルボードのインタビューで答えている。

また、オフステージでのロスとの付き合いも現実的に無理だと言っていた。「彼は俺の友だちでいたくないんだよ。どう言ったらいいのかな? ロスの自己イメージというのは実際の彼とは異なるものなんだ。俺たちはもう20代じゃない。もう60代だぜ。60らしくしなきゃ。俺は髪の毛を染めるのをやめた。だって若返ることは絶対にないって分かっているからね」と。

ヴァン・ヘイレンが公の場で最後に演奏したのは、2015年の10月4日のハリウッド・ボウルだった。このとき、ロスはステージでエディを抱きしめ、二人は温かい笑顔を交わした。そしてエディは「俺の人生で最良の年だ。人生の頂点だよ。こんなふうにお前とステージでプレイするのがさ、だろ」と言ったのだった。

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From Rolling Stone US.

Translated by Miki Nakayama

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