シャーデーが1985年に語った、音楽との出会いと「引き算の美学」

シャーデーが明かす「引き算の美学」

バンド“シャーデー”の転機は1983年に訪れる。現代美術協会(ICA)でのコンサートに出演できることになったのだ。この公演には、協賛として雑誌の「The Face」が名を連ねていた。英国のつやつやピカピカの、音楽とファッションの専門誌である。当日のクライマックスは目一杯着飾ったテクノポップバンドでこそあったのだけれど、しかし優雅に落ち着き払ったシャーデーが、従えているのはただマシューマンとリズムセクションだけという編成でなお自信に満ちて、胸を裂くようなあの「クライ・ミー・ア・リヴァー」を、いかにもそれに相応しい吐息のような歌声で歌った時、会場はたちまちにしてトレンド発信者たちの歓喜の坩堝と化した。彼らは次のネタを見つけだしたのである。



1983年10月に、バレットがバンドをエピックと契約させた。グループはシャーデーとマシューマンを軸として、ベースのポール・デンマンと鍵盤のアンドリュー・ヘイル、それから後にはデイヴ・アーリーと交代することになるドラムのポール・クークという編成に落ち着いていた。彼らはまた、プロデューサーのロビン・ミラーに紹介されることにもなった。広がりのある落ち着いた音作りに定評のあった人物である。シャーデーとミラーとによるシンプルで控え目なサウンドアプローチは、あの手この手の音響効果で注意を引きつけようというサウンドばかりの目立った当時のポップの世界では、むしろ一層際立つことにもなった。最初のシングル「ユア・ラヴ・イズ・キング」は2月の発売だ。そして2枚目のシングル「メイク・ア・リヴィング」とアルバム『ダイアモンド・ライフ』とがこれに続き、いよいよシャーデーは船出し、動き始めた。

まさに時代の流行に乗ったのかも知れない。「ニュージャズ」ムーヴメントの先駆けとなったのだとも言えよう。確かにこれは、通好みというか、きらびやかさとはほど遠い一枚だった。まさにシャーデーの普段のスタンス通りの作品だ。



「けっこう私、こういうアプローチをしがちなのよね」

シャーデーはこのように説明する。

「やり過ぎるということができないの。振り切っちゃえないとでもいうのかしら。どういったって控えめなのよね。そういうのが歌い方にも出ちゃってる。でも、人の心を動かすためには、必ずしも泣き叫んだりシャウトしたりする必要があるとも思ってはいないの。私自身だって時に泣いたり叫んだりすることはあるわよ。私の方としては、歌に何かを込めたいとはいつだって考えているし、言いたいと思っていることもある。でも、真逆の立場の聴く方の人々からしてみると、なんだかとても大人しめに響いているみたいなの。きっとそうすべき時がきて、そういうのが相応しい歌を歌うような場面では、私も声を張り上げて振り切ってしまうのでしょうね。でも、強調することが何かを通わせる最善の手段だとも思っていないことも本当だわ」

「同じことがすべての場面に当てはまるのよ。服もデザインも、それから建築もだと思うけれど。今はぶっ飛んでいることが受け容れられる時代よね。四方八方十六方どころか、とにかくそこら中に向かって伸びてる髪型とか、色数の無茶苦茶多い格好とか。それが流行りだから。だから突飛な姿もすっかり受け容れられて、つまりそれは、ある意味保守的にさえなっているのよ。美術学校にいた時から私はもう、周りが受け容れやすいような方法で何かをやっている、つまり、ほかの誰かがやっているのを目にしてすでに安全だとわかっているようなことをやりながら、自分たちはものすごく変わっているんだと思えちゃえるような、そういう図太い神経の持ち主みたいな輩が大っ嫌いだったわ。私自身は特に肩で風切っているように見えたいなんて思っていないわよ。でも、周りと同じに見えたいとも思っていないの」

Translated by Takuya Asakura

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