ブルース・スプリングスティーンが語る音楽の力と米社会、亡き友との絆が遺した影響

「世界一ビッグなバーバンド、それがEストリート・バンドのイメージだった」

2019年の時点で、スプリングスティーンはEストリート・バンドを必要とする曲から長く遠ざかっていた。「過去6〜7年間、俺はバンド向きじゃない曲を書き続けていた」。彼はそう話していた。2012年作『レッキング・ボール』(大衆迎合主義を痛烈に批判した歌詞、やや実験的なプロダクション)と、予定よりも遅れる形で昨年発表された『ウェスタン・スターズ』(意外性のあるメロディ、自伝的内容のオーケストラ・ポップ)の両作は、彼がクリエイティビティの爆発を経験していた2010年代初頭に書かれた曲がベースになっていた。また詳細は不明だが、当時の曲を元にしたアルバムがもう1枚存在するという。彼は過去10年間で残したその他の作品について多くを語っていないが、高く評価された500ページ超の自叙伝、トニー賞を受賞したブロードウェイ公演、そして2000年代に書いた曲とカバーで構成された2014年作『ハイ・ホープス』等、様々な形でその存在感を示してきた。


ウェスタン・スター:所有するコルツ・ネックの牧場にある厩舎でのスプリングスティーン。彼はここでEストリート・バンドと共に、『レター・トゥー・ユー』をわずか5日間で完成させた。(Photo by Danny Clinch for Rolling Stone)

「鉱山の中にいるみたいな感じさ」。彼はそう話す。「クリエイティビティの鉱脈がどこにあるのかを、ひたすら探り続ける。ある脈が枯渇してしまったら、別の場所を探さないといけない。その脈は数年間枯れたままかもしれないし、数週間で復活するかもしれない。それはいろんな出来事に左右されるんだ」。彼の親友の1人であり、Eストリート・バンドのサックス奏者にして原動力でもあったクラレンス・クレモンズが2011年に他界したことは、スプリングスティーンにとって人生観を揺るがすほどの出来事だった。2008年には同バンドのオルガン奏者だったダニー・フェデリシが逝去しており、彼は信頼を寄せる仲間を立て続けに失うことになった。口にこそ出していないが、彼がEストリート・バンドを必要とする曲を書かなくなったのはその頃だ。

考えを変えるきっかけになったのは、2人のバンドメンバー以上に古い友人だったTheissの死だった。「俺たちは多感な時期を共に過ごし、友情を育んだ」。スプリングスティーンはそう話す。「俺の作風の大部分は、あのバンドにいた頃に培われたんだ」。その後彼が結成したハード・ブギーなバンドSteel Millが、オーディエンスの大半を占めていたヒッピーたちを意識したオリジナル曲によって成功を収めたのに対し、The Castilesはごく普通の人々の日常に寄り添うバンドだった。サム&デイヴ、ビートルズ、ボー・ディドリー、ジミ・ヘンドリックス等、彼らはビーチ沿いのクラブや教会の地下スペース、あるいはローラーリンク等に集うキッズたちを踊らせる曲を多数カバーしていた。1972年にレコード契約を交わした時、スプリングスティーンはそれを自身の信条とすることに決めた。「The Castilesでやってたことは、今の俺と深く結びついている」。彼はそう話す。「The Castilesはローカルのオーディエンスが求めているものを提供してた。それって、俺がEストリート・バンドを始めた時のコンセプトと大差ないんだよ。世界一ビッグなバーバンド、それがEストリート・バンドのイメージだった」

Translated by Masaaki Yoshida

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