ブルース・スプリングスティーンが語る音楽の力と米社会、亡き友との絆が遺した影響

デモを一切作らなかった理由とは?

「俺も彼と同じ考えだった」。スプリングスティーンはそう話す。1981年に彼がローディーに命じてTascamの4トラックカセットレコーダーを購入したことは、彼のキャリアにおける転換点のひとつとなった。彼にとって最初のホームスタジオとなったその機材は、現在ではロックの殿堂に展示されている。その翌年にリリースされた『ネブラスカ』は、元々Eストリート・バンドのメンバーに聴かせるために制作されたデモ音源だったが、結果的にスプリングスティーンにとって初の本格的ソロアルバムとなり、バンドを伴わない作風を追求し始めるきっかけとなった。制作を自宅でほぼ完結させたベッドルーム・ポップのレコード『トンネル・オブ・ラブ』が1987年に発表されてからは、デモ音源とスタジオ録音の境界線はますます曖昧になっていった。装飾を一切排除し、痛ましいほどの孤独感を漂わせていた「ストリーツ・オブ・フィラデルフィア」はその最たる例だ。

2000年代に頭角を現したアーケード・ファイアやザ・キラーズ等の派手なサウンドには、Eストリート・バンド時代のスプリングスティーンの影響が色濃く現れていた。しかし最近では、むしろ彼のソロ作に影響を受けたと公言しているアーティストの方が多い。密閉空間を思わせるウォー・オン・ドラッグスのサウンドや、彼の大ファンを自認するジャック・アントノフによる、テイラー・スウィフトやロード、ラナ・デル・レイ等の作品におけるシンセワークがいい例だ。スプリングスティーンは自身のラジオ番組『From My Home to Yours』でウォー・オン・ドラッグスの曲をプレイしているほか、デル・レイの作品が好きだと語っている。「パティも俺も彼女の大ファンだ。『ノーマン・ファッキング・ロックウェル!』の緻密なソングライティングには舌を巻いたよ。ドラマチックでシネマティック、素晴らしい作品だと思う」

『ザ・ライジング』(同作の発表が18年前だということを、スプリングスティーンは「信じられない」と話す。「あれって俺の『近作』のひとつなんだからさ」)のレコーディングでEストリート・バンドと再びタッグを組んでからも、彼は独りでデモ音源を作り続けていた。しかし去年、彼はそれをやめることを決意した。「デモを作ってるとアイデアがたくさん浮かんできて、どんどん音を重ねてしまうんだ」。彼はそう話す。「そしていつの間にか、曲のアレンジを考える段階になってる。そうなるとプレイヤーたちの役割が限られてしまい、結果的にEストリート・バンドを必要としないレコードが出来上がるんだ。だから今回はデモを一切作らなかった」。アイデアが浮かんだときもスタジオは使わず、アコースティックギターの弾き語りを覚え書きとしてiPhoneに録るようにした。

そのアプローチを誰よりも歓迎したのは、初期の作品で型にとらわれないアレンジのスキルを存分に発揮していたヴァン・ザントだった。ブレンダン・オブライエンがプロデュースを手がけ、Eストリート・バンドがレコーディングに参加した作品群(『ザ・ライジング』『マジック』『ワーキング・オン・ア・ドリーム』)は、自身をソロアーティストと見なしていたスプリングスティーンが考えを改めるきっかけになったという。「バンドとしてのセンシビリティを取り戻したんだ」。ヴァン・ザントはそう話す。「ブルースはメンバーたちを信じ、自分が再びバンドの一部になったことに喜びを感じているようだった」

37年ぶりだと筆者が指摘すると、ヴァン・ザントは笑った。「彼は何かとスローだからね。意図的なものだった、ってことにしておこう」

『レター・トゥ・ユー』には、グロッケンシュピールやリリカルなピアノのイントロ、膨張していくかのようなオルガンのコード、ジェイクによる伯父譲りの勇ましいサックスソロ等、スプリングスティーンが何十年もの間敬遠してきた、彼のレコードにおける代名詞ともいうべき要素が多く見られる。セッションの最中には、スプリングスティーンがビタンに向かって「もっとEストリートらしく」という指示を出したこともあったという。「思わず頰が緩んだよ」。ビタンはそう話す。「『Eストリートのカラーはいらない!』なんて口にしてた時期があっただけにね」


スプリングスティーンの最初のバンド、The Castilesの1965年当時の写真。中央はギターヴォーカルだったGeorge Theiss(Billy Smith Collection)

Translated by Masaaki Yoshida

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