矢沢永吉が語るバラードの魅力 90年代、秋元康から打ち明けられた「本音」とは?

変革の80年代、打ち込みとの出会い

ー「棕櫚の影に」は1984年に発表されたアルバム『E’』(イーダッシュ)に収録されました。80年代のアルバムは打ち込みやシンセを導入する等、矢沢さんにとって新たなサウンドアプローチを行った変革期だったかと思います。

矢沢:その頃は、僕がアメリカに行き始めてしばらく経ってアンドリュー・ゴールドと出会った時期でした。その頃にはもう、「棕櫚の影に」があったんです。当時、世の中的にはコンピューター、打ち込みの始まりですよね。アンドリューはものすごくアイデアマンで、プロデューサーとしても優秀だったんだけど、「矢沢、ぜひおまえと手を握ろうじゃないか」って、一緒にアルバムを作ることになって。それが『E’』ですよ。それで、アンドリューが家に来てくれって言うから約束して行ったんだけど、僕はそのとき、ドラムもベースもどうやって録るつもりなのか皆目見当がつかなかった。というのも、それまでの僕のやり方は、スタジオに行ってミュージシャンが集まって、ドラム、ベース、ギターで「せーの、ワンツースリー!」で同時に録って作るのが普通だったから。でもアンドリューの家に行ったら、「OK矢沢、どの曲からやるかテープを聴かせてくれ」って言われて。今でいう、プリプロダクションですよね。家に行ってみたらアンドリューと機械の山しかなくて、ミュージシャンがいないんですよ。だから、僕の音楽に打ち込みの世界を導入させてくれたのは、アンドリュー・ゴールドなんですよ。それで誕生したのが、「棕櫚の影に」であり『E’』なんです。

ー実際に、「棕櫚の影に」はアンドリュー・ゴールドとどんなやり取りをして完成したのでしょうか。

矢沢:アンドリューが、「もらったテープを聴いていたんだけど、俺にちょっとアイデアがある」って言ってきて。それで出てきたのが、16ビートの打ち込み。「DayDream~ラララララ~」(冒頭を歌いながら)。「棕櫚の影に」があの16ビートで誕生した瞬間、ファッキン・グレイトなあのメロディ、アンドリューのアイデア……僕は幸せだったなあ。幸せだったし、「うわあ、こんなすごい曲が生まれてきている」っていうね。メロディは僕が書いてますけど、やっぱりアンドリューなくして「棕櫚の影に」は生まれてないですよ。だから僕は、その時代その時代ですごいやつと出会ってるんですよね。アンドリュー・ゴールド、ジョン・マクフィー、ジョージ・マクファーレン、世界で3本の指に入るエンジニアのクリス・ロード・アレジ……そういう世界のすごいやつらと出会うことで、僕を未知の世界に連れて行ってくれた。もうアンドリューは亡くなってしまいましたけどね(2011年逝去)。今「棕櫚の影に」にまつわるエピソードを自分で喋っていても、タイムマシンのように、あの頃の30歳ぐらいの矢沢に戻れますね。だから、音楽って素晴らしいんだと思う。

ーアメリカでもイギリスでも、レコーディングごとにそういうすごいアーティストとの出会いから刺激を受けて、作品が生まれていったわけですね。

矢沢:世の中なんて、どれだけすごいやつらと出会えるかどうかだと思う。僕は昔、ある雑誌のインタビューで、「俺はミーハーだ」って言ったことがあるんですよ。ミーハーって普通は見下した意味だけど、僕はそうじゃなくて、やっぱりすごいやつらと会ったときに、「ワオッ! 俺こいつのこと大好きだよ」って思えるようなミーハーさ。それってすごく大事なんじゃないかな? ミーハーな感覚がないやつに発展はないと思う。世の中の矢沢永吉のイメージで言えば、「永ちゃんが自ら“俺はミーハーだ”なんて言うわけないよね」ってみなさん捉えてるかもしれないけど、僕は敢えて言いますよ。僕は“ものすごく感覚の長けたミーハー”ですよ。

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