ボブ・ディラン70年代の傑作『血の轍』完成までの物語

ボブ・ディラン(Photo by Alvan Meyerowitz/Michael Ochs Archives/Getty Images)

ローリングストーン誌による「歴代最高のアルバム500選 | 2020年改訂版」の関連企画として、重要作の制作過程に焦点を当てた記事を公開する。今回は9位のボブ・ディラン『血の轍』(原題:Blood on the Tracks、1975年発表)について。集中的な絵画の勉強、私生活とアーティストとしての自身とを同時に襲った危機、日の目を見るに至らなかった複数のレコーディングセッションが、いかにこの古典的傑作へと結実していったかを解き明かす。(※以下の記事は、2015年のRS誌ディラン特集号が初出)



絵画の勉強から学んだこと

1974年の春、ディランはカーネギーホールへと戻ってきた。1961年にコロンビアと契約を交わした数日後、自身初となる小さなリサイタルを開いた場所だ。だが彼をこの建物に呼び戻したものは音楽ではなかった。

彼が同所にやってきたのはノーマン・リーベンに教えを請うためだった。ロシア生まれの画家でユダヤ文化の研究者でもある彼が、会場の上、11階のスタジオで講座を開いていたのである。

輝かしき勝利の時間であっておかしくない時期であったにも関わらず、この頃ディランは芸術的な危機に直面していた。2月までには『プラネット・ウェイヴス』が自身初のナンバーワンアルバムとなり、ザ・バンドを従えての32日間に及ぶアリーナツアーも敢行、大成功を収めていた。だが本人が後にローリングストーン誌のジョナサン・コットに語ったところによれば、まるでごく初期の日々に後戻りし、劫火の中を手探りしているような気分が拭えなかったのだそうである。

「『ブロンド・オン・ブロンド』の時代を通じて、自分はずっと無意識のままやっているような状態だった。そんなある日、いよいよ中途半端になっていた光が消えた。その瞬間から、なんだか半ば記憶喪失みたいになってしまったんだよ」

●【画像を見る】秘蔵写真で振り返る、1975年のボブ・ディラン

そこで彼はリーベンを探し出した。著名なユダヤ人作家ショーレム・アレイヘムの息子である。ユダヤ哲学についてもう少し学ぼうというつもりだったのだが、結果的に2カ月を絵画の勉強に費やすことになった。週に5日、朝の8時半から午後4時までだ。

リーベンの力を借り、ディランは自らを意識的な芸術家へと作り替えた。「あの人は描き方なんてほとんど教えてはくれないんだよ」。ディランは言う。「彼が示してくれるのは、頭と心と、そして目とを一体にするその方法だ――目を覗き込んで、こちらが何者であるかを教えてくれるのさ」

とりわけ重要だったのは視座と時間に関する考え方だった。決して物事を直線的に捕らえるということをしてこなかったディランが、キュビズムの唱えた多重視点の観点からの時間というものと、そして“昨日と今日と明日とを同じ一つの部屋にあらしめる”ような語りを構築する方法とを理解し始めたのだ。この結果として出来上がったアルバムの1曲目は、教室でディランの画布が呈していたある一色への過剰な依存傾向をレーベンが評した言葉から取られることとなった。

「青(ブルー)にこんがらがって」(Tangled Up in Blue)


Translated by Takuya Asakura

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