ボブ・ディラン70年代の傑作『血の轍』完成までの物語

エレン・バーンスタインとの新たな関係

ディランがこんがらがっていたのは芸術性の問題だけではなかった。『プラネット・ウェイヴス』とライブ作品『偉大なる復活』をデイヴィッド・ゲフィンのアサイラム・レーベルから発表した後、コロンビアへの復帰を画策するという一仕事をどうにかやりとげたばかりだったのだ。さらに重要なことには、12年に及んでいたサラ・ロウンズとの結婚生活が緊張を孕み出していた。2月11日のザ・バンドを伴ってのオークランドでの公演の直前、彼は24歳の女性と出会っている。名前をエレン・バーンスタインといった彼女は、コロンビアのサンフランシスコ支社のA&R部門の責任者だった。

二人はブロモーターのビル・グラハムが主催していたパーティー会場から抜け出すと、彼女の家に行ってそこで徹夜でバックギャモンに興じた。

バーンスタインは再びディランから連絡が来るものかどうかについては半信半疑だった。けれどほどなくマリブの自宅に来ないかという誘いを受けた。夏にはミネソタの農場にも招待された。ミネアポリスの西にある、クロウ川沿いの地所である。ディランの弟のデイヴィッド・ジマーマンが表の道路沿いの場所に家を持っていた。さらに奥に位置したもう一軒で、ディランは午前中のいっぱいを赤いノートに歌詞を書き付けることに費やしていた。

バーンスタインはクリントン・ヘイリンに以下のように語っている。

「ディランが姿を見せるのは大体ちょうど正午くらいで、階下に降りてきたかと思うと、まだ日のあるうちから書き上げたものを私に見せてくれました。詞はノートに書かれていたのですけれど、彼は演奏し、どう思うかと訊くのです。毎回違うものでした。本当にいつもです。彼はとにかくできあがったものを、変えて、変えて、変えていくんです」

どうやらこうした歌たちのほとんどが今なお変化をやめようとはしていないようだ。以後何年もの長きにわたって、演奏やレコードへの収録のその都度にこれらは、歌詞や登場人物を変え、背景を変え、視座を変えている。まるでディランはリーベンの教えをそのまま自分の聴衆たちに伝授したいとでも考えているかのようだ。

「止まらないんだ」。1991年にはディラン自身がポール・ゾロに「愚かな風」(Idiot Wind)の異なるヴァージョンについて訊かれ、このように答えている。「作品が今なお、たゆまぬ前進を続けているようなものなのさ」


Translated by Takuya Asakura

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