ボブ・ディラン70年代の傑作『血の轍』完成までの物語

消化不良のレコーディング

9月までにはディランとバーンスタインはニューヨークにいた。いよいよアルバムの最初のレコーディングが実施されることになっていたのだ。しかしその前にはもう一度、さらなる予行演習が必要だった。

「彼はユダヤ敬虔主義者たちが集まっている界隈にいる友人を訪ねたがったの。たぶんクラウンハイツだったと思う」。バーンスタインはそう記憶している。「裏庭に行ってその彼の友人たちの前で演奏したのよ。敬虔主義者のユダヤ人の一群」

9月の半ばにはディランのレコーディングへの準備も整った。セッションはマンハッタンのミッドタウンにあるA&Rスタジオで開始された。以前はコロンビアのAスタジオだったところで、彼が最初の6枚のアルバムを制作した場所でもある。9月16日の午後、ディランはプロデューサーのフィル・ラモーンと会い、10曲を聴かせている。この時ラモーンが録音した音源はブートレッグにもなったことがない。それでもこれを聴いたことがあるという者たちに寄れば、生々しくも剥き出しで、実際完璧だったらしい。アルバムに収録された最終的なトラックにも勝っているものも複数あったという。その後付与されていくことになった複雑さがないというのだ。

この複雑さというのはただちに加味され出した。ラモーンはまずエリック・ワイズバーグの肩を叩いた。弦のあるものならなんでもござれという人物で、ちょうどこの前年に映画『脱出』のサウンドトラックとして録音した「デュアリング・バンジョー」がビルボードのホット100で2位にまで昇り詰め、まさに金脈を掘り当てたばかりだった。夕方の6時にワイズバーグと『脱出』のバンドがやってきて、レコーディングが始まった。メンバーは皆熟練したスタジオミュージシャンたちで、開始早々からもう全員が、ディランについていくという今回の課役に不満を募らせ出していた。彼は一度自分自身を、半ば冗談めかしてではあるが“空中ブランコ乗り”にも準えたことがあるような人物なのである。

ラモーンはこの日の早い時間に録音していたディランのソロによるテイクを彼らに聴かせることもしなかったうえ、楽譜もなかった。代わりにディランが曲を示すのだ。バンドは大急ぎでコードを書き留めた。しかし通しが始まると、メンバーはただ演奏するディランの手元だけを見つめ続けることを強いられた。進むに連れ彼がどんどんコードを変えていってしまうからだ。

「彼はその一瞬の性急さみたいなものを求めていた――間違いがあるとかないとかにはおかまいなしだ」。ギタリストのチャーリー・ブラウンが作家アンディ・ギルにこう語っている。「でも一方の僕らの方は、正しく演ることに慣れていた」

しかしこの夜ばかりはそういう訳にはいかなかった。真夜中までの6時間をかけ、6曲かそれ以上をそれぞれ30テイクほどこなした。このフルバンドによるトラックもまたブートレッグ化されてはいないのだが、これらを耳にしたことのある者たちは、ディランの楽曲や歌の持つ感情的な生々しさと、洗練され過ぎた演奏とがただ衝突し、残念な仕上がりにしかなっていないと形容している。

翌日ディランはベーシストのトニー・ブラウンだけを呼び戻した。ほかの『脱出』バンドの面々はなしだ。単身やってきたブラウンは、緊張どころの話ではなかった。しかし彼にも考えがあった。チャーリー・マッコイの疾走感に自らを同調させつつも、演奏を『ジョン・ウェズリー・ハーディング』の仕上がりに寄せていくつもりだったのだ。他の多くの人々と同様、彼もまた、ディランの真に偉大と呼べるアルバムは同作が最後だったと信じていたのだ。それからの3日間、このブラウンをパートナーにディランは、まだ最終型ではなかったにせよ、各収録曲を一応の完成にまで追い込んだ。最初の夜には『追憶のハイウェイ61』にも参加していたポール・グリフィンをオルガンに加え「きみは大きな存在」(You’re a Big Girl Now)が仕上がった。2日目の夜はディランとブラウンが一対一で「おれはさびしくなるよ」(You’re Gonna Make Me Lonesome When You Go)と「嵐からの隠れ場所」(Shelter from the Storm)を完成させた。3番目の夜にはグリフィンが戻り、「愚かな風」を含むさらに4曲をレコーディングした。かくして9月25日、いよいよ『血の轍』の試聴盤を手にディランは去った。

Translated by Takuya Asakura

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