エルヴィス・コステロが語る、キャリア屈指の最新作と「過去に縛られない」自身の歩み

才能豊かな音楽家たちと、自然の流れに任せたアプローチ

―まずは、最近言い尽くされたありきたりの質問から始めさせていただきたいと思います。2020年に起きたあらゆる状況に、あなたはどのように対処してきたでしょうか?

コステロ:そうだな。正直に言うと、僕は本当に恵まれていたと思う。ヨーロッパにいたからヘルシンキでレコーディングして、ニューヨーク、パリへも行けた。確かイングランドで行った最後のツアーの直前だったと思う。ツアーの最後の3公演は、ファンに不条理を強いることになってしまった。

その時、政府はまだ劇場の閉鎖などは決めていなかった。チケットは完売していたが、空席も目立ち始めていた。友人の何人かが電話してきて言うんだ。「今晩のショーへ行こうと思うんだが、正直に言うと安全だとは思えない」ってね。そこで僕は、バンドやスタッフ、それからファンに会場へ来てくれと言うのは無責任ではないだろうか、と考え始めたのさ。

結局ツアーの日程を短縮し、予約していたロンドンのレコーディングスタジオもキャンセルした。それからカナダへ帰ったんだ。移動後に皆がしているように隔離生活を経て、その後は毎年春や夏のほとんどを過ごすバンクーバー島のキャビンに、家族と一緒に滞在していた。とはいえ大都会ではなく、そこで家族と一緒にいられたので、僕はとても運が良い。

友人たちやイングランドにいる母親のことも気に掛かった。母は90歳代の高齢で、最も脆弱な立場にいるからね。けれども、彼女の自宅に通って世話をしてくれている人たちが、本当に良くやってくれている。だから僕は音楽に専念して、今の贅沢な時間を最大限に利用しようと思った。妻や子どもたちと過ごし、友人たちと連絡を取り合い、状況を見ながら自分にできることを始めた。

明らかに、誰もが想像できないほど長引いている。それでも僕は時間を無駄にする訳にはいかないので、制作活動に没頭した。そうしている内に、僕らがレコーディングした作品の出来が良かったことに気づいたんだ。コンサート中だった上に、マイケル・レオンハートから共演の誘いもあったから、ゆっくり聴き返す時間がなかったんだ。彼が送ってきた作品のひとつが、最終的に「レディオ・イズ・エヴリシング」になった。さらに彼がもう1曲あるんだと言って持ち込んだのが、「ニューズペーパー・ペイン」だ。

僕は彼に「君のレコード用の作品だということは承知しているが、君と僕の両方のレコードに収録してもいいかな。君はジャズ・ミュージシャンだし、君と僕のファン層は被らないしね」と頼んだのさ。恐らく彼と僕が別々にリリースしても、聴くのはそれぞれ違った人たちだと思う。滅多に無いことだ。でもこれでパズルのピースが完成したと思う。彼の作品は、僕がヘルシンキでレコーディングした楽曲やパリで仕上げた曲と上手く融合した。とにかく僕には自然に聴こえた。それからアルバムの曲順を決め、プロデューサーのセバスチャン・クリスがミックスした。そうやってこのアルバムが出来上がったのさ。




―ヘルシンキのスタジオへ入った時に、ニューアルバムの全体的な構想について話していただきました。元々ヘルシンキでアルバム全部を仕上げるつもりだったのでしょうか? それとも数曲をレコーディングする予定だったのでしょうか?

コステロ:レコーディングに入る時は、どうなるか想像もつかない。他のミュージシャンを入れずに自分だけの場合には特にそうだ。しかも周りの人たちは、自分のやり方を知らない。初めてのスタジオで、エンジニアに会うのも初めてだった。ヘルシンキのメインストリートを歩いて、小さなフェリーでスタジオのある島へ渡ると、たちまちそこが気に入ったんだ。

とてもすがすがしい冬の日で、以前訪れた時のように雪に覆われていることもなかった。気持ちの良い空気を胸いっぱいに吸い込んだ。スタジオへ入ると、そこにはただ必要なものしかなかったが、しっかりと使えた。全てが揃っていたが、驚くような豪華な設備ではない。僕はスタジオの中で自由に遊べた。僕はドラムを叩けないので、代わりにドラム・パートを歌った。するとエンジニアが「これをリズムのベースに使いましょう」と言うので、実際の楽曲に採用することになった。

さらに僕は「この部屋にある全てをドラムにしよう」と提案した。ギター、オルガン、ピアノなど何でもだ。どんなものでもリズムを刻むことができる。決められた楽譜通りではないロックンロールさ。「まずベースとドラムがあって……」というノーマルな進め方ではない。こんな感じの曲だからこうプレイしよう、という予定調和的なプレイからの脱却だ。

自分一人で全部のパートがこなせれば、3日で3曲を仕上げる早技も可能だし、その内の1曲に1週間かけることだってできる。エンジニアのイエトゥ・セッパラの働きが見事で、作業が迅速に進んだ。2人のエンジニアが本当に素晴らしかった。だからヘルシンキでのレコーディングを終えた時は「これで一段階終えたが、パリではどうなるだろう?」と楽しみだったよ。

そして翌日パリへ飛んだ。何だかまるで僕が、ジェット機で世界を飛び回る生活を送っている人間のようだろう? 今は、新聞を買いにちょっと出掛けることすら気兼ねするような時期だ。無神経な発言だったかもしれないが、その時はまだそれができた。パリではちょうどスティーヴ・ナイーヴ(ピアニスト)の誕生日で、彼の自宅でパーティーを開いた。パリ中から友人たちが集まり、フランスのパスポートを取得したばかりの彼を祝って、皆でフランス国歌を合唱したよ。今となっては信じ難いことだが、その時は皆で肩を組み、顔を見合わせながら歌い、ケーキもシェアして食べたのさ。

パーティーの翌日からスタジオに入って、レコーディングを始めた。サンジェルマンの伝統ある立派なスタジオで、ミュージシャンの内の2人は以前にも一緒にやったことがあった。その他の2人は初対面だったが、スティーヴもそうだった。だから、人選が間違っていたら大変なことになっていたよ。でも全員が、僕のやりたい方向性を理解してくれていたようだった。スティーヴがコード表を用意してくれたが、その時点ではどのパートのアレンジもできていなかった。

とにかく歌い出して、彼らの演奏を聴いてみたかった。彼らの演奏は僕の理想としていたそのもので、彼らも僕のやり方を理解してくれた。僕も彼らのやり方を理解して、2日間で9曲を仕上げた。でもとにかく何度か合わせてみるというジャズ・レコードのようなやり方で、素晴らしいテイクが録れたのさ。

Translation by Smokva Tokyo

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