イギー・ポップとエルヴィス・コステロが語る、波乱万丈の70年代と「失敗を恐れぬ心」

エルヴィス・コステロとイギー・ポップ(Photo by Lens O’Toole, Courtesy of Iggy Pop)


過ぎ去りし70年代の記憶(2)

イギー:俺の場合(ソロ活動を始めた時は)、既に先の無い感じだった。君の場合は、そもそもラジオでかかるような曲を作ろうなんて考えていなかっただろう。アメリカでは、野球帽を被った筋骨隆々の太っちょ野郎が仕切り始めて、やがてビジネス全部を持っていくんだ。皆が揃って「ロック・ゴーズ・トゥ・カレッジ」的な雑誌を読んでいた。俺には縁が無かったけどね。

コステロ:その手の雑誌でロック・クラブのことを知った。突然自分もウィスキー・ア・ゴーゴーなどに出演することになったが、全く華やかだとは感じなかった。

イギー:ちょっと時期が遅かったのさ。もうブームの終わり頃だったのだろう。1970年にロサンゼルスでアルバム『ファン・ハウス』をレコーディングして、ウィスキー・ア・ゴーゴーでライブをした。俺たちと同じホテルに、アンディ・ウォーホルと取り巻きも宿泊していたんだ。彼らは俺たちのギグにやって来て、後ろの方のブースに陣取っていた。ステージ上にはストゥージズがいて、周りはダンスフロアさ。ステージでは尻の見えそうなミニスカートとベルボトムのパンツを履いた3人のサーファー娘が、サーフダンスを踊っている。かなりスペシャルな状況だったよ。俺たち自身や俺たちの音楽とは全然かけ離れていたからね。

コステロ:そんな状況でもお構いなしに踊ってくれるなんて、素晴らしい。僕らの場合は、ステージに冷たい視線を向けられていたからね。僕らもトロピカーナに泊まったことがある。まだ営業しているよね。

イギー:素晴らしいホテルだった。

コステロ:ラスベガス・ストリップは馴染みの場所だった。こっちに洗車場があって、反対方向にはアイホップがあった。僕は運転しないから、ロサンゼルスでは移動に苦労した。バスも地下鉄も無かったからね。「お前は歩いて行こうとしているのか? 6kmも先だぜ」という感じだった。僕にとっては未知の世界さ。

イギー:俺は(音楽業界の生き残り方を)全く学習しなかった。ストゥージズは、エレクトラ(レコード)から始まった。ジャック・ホルツマンは、レコードショップのオーナーだった。彼が持っていたのは店1軒だけだったが、彼にはセンスの良さと学識があった。俺たちはエレクトラに見限られ、CBSへ移籍した(1973年のアルバム『ロー・パワー』)。そこにクライヴ・デイヴィスがいたが、彼は俺たちとの契約を後悔していた。その後デヴィッド・ボウイと進めていたプロジェクトの関係で、RCAと(ソロ名義で)契約した。RCAはボウイのプロジェクトに関わる人間を求めていたから、ボウイは他の幹部に俺の契約のことは隠していた。その後アリスタと契約した頃に、イギリス人のチャールズ・レヴィソンという素晴らしい人物に出会った。それからクライヴ・デイヴィスがアリスタの経営権を握って最初に言ったのが、「何をしてくれたんだ?! イギー・ポップと契約しただと? なんてこった!」だった。

コステロ:『ロー・パワー』に関してはとんでもない陰謀があった。

イギー:本当に酷かった。



コステロ:最初のバージョンは、まるでカセットからそのままコピーしたようなサウンドだった。ベースが聴こえず、妙なコンプレッションがかかっていた。君の内から出るエネルギーを失わせてはいけない。でもイギリスでは、寄ってたかってアルバムのことをあれこれ言われたと思う。辛い状況だっただろう?

イギー:良かった点は、デトロイト出身の俺たちの気を散らす全ての悪いものを断ち切れたことだ。曲を作ってリハーサルする場所を与えられ、最終的には立派なスタジオも用意された。本当に素晴らしいアルバムを作れる環境にあった。でも「俺たちはライヴができるのだろうか?」と思い始めた頃に、全てが狂い始めた。

それから俺は、カーツ大佐(訳註:映画『地獄の黙示録』の登場人物)のように引きこもり、頭の中でイメージしたサウンドをどうにかミックスしようと頑張った。最終的に、徐々に俺はその状態から抜け出さねばならなかった。俺はジェームズ・ウィリアムソンと一緒にロサンゼルスに2日間滞在し、デヴィッド・ボウイとミックス作業を終わらせた。その頃俺たちは、マスタリングが何かということも知らなかった。針がレッドゾーンまで振れそうになったら「おい、少し絞れ!」という感じだったのさ。俺たち自身がレッドゾーンだったよ。

Translated by Smokva Tokyo

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