マイリーが10歳の頃に初めて書いた曲とは?
ー大人になりきる前から、自身のセクシュアリティや体について好奇の目を向けられてきたことは、何かしら長期的な影響をもたらしたと思いますか?
それに傷ついてたかどうかは覚えてない。常に監視されてるように感じてた覚えもないし。本当の自分がどういうものかは自覚してたと思うけど、そういうことによる影響はあったはず。自分がこれといった個性のないティーンエイジャーで、(20代)前半の冒険も取るに足らないものなんだって感じてたのは、そういう批判がトラウマになってたからかもしれない。
ーあなたのプライベートな写真がリークされたり、キッズ・チョイス・アワードでのパフォーマンスがストリッパーのポールダンスに例えられたりした時、あなたのご両親はどう対処していましたか?
パパは無視してた。10代の娘を持つ父親の大半と同じように、「その話はしないでおこう」って感じだった。ママはものすごく怒ってたかな。わたしの声と才能を信じてくれてたからこそ、ママはわたしの行動が理解できなかったんだと思う。「一体何やってんの? せっかく才能に恵まれてるのに。あなたは音楽以外のことで注目を集めるのはやめるべき。ストリッパーに例えられるなんてうんざりでしょ?」って言われたの。
ー初めて書いた曲のことは覚えていますか?
「ピンクとは色じゃなくてアティテュードのこと」「輝きの中の煌めき、目の覚めるような緑色の草」っていう曲がわたしの処女作。アヴリル・ラヴィーンっぽい、ポップロックの曲だった。「真夜中の鬼母」っていう曲もあったな。幸せをショッピングモールで買おうとしてたママのことを歌った曲なの。買い物に何時間も付き合わされて、わたしはいつもマネキンを演じてた。長時間ポーズを取らされてたから、買い物客がゾロゾロ集まってきてた。ママのそういう浅はかなところを歌った曲ってわけ。家に帰ってすぐ日記に歌詞を書いて、ママの前で歌ったらこう言われた。「このリトルビッチ」
ー当時あなたはいくつでしたか?
曲を書き始めたのは10歳の頃くらいだと思う。発表できなかったのは、著作権の問題があったからじゃないかな。どっかのフェアで買った何かにプリントされてた「Pink isn’t a color, it’s an attitude」っていうフレーズをそのまま使ってたから、正式にリリースしてたら訴えられてたはず。これを考えた人は天才だなって思った。しばらくしてBlue Rosesっていうバンドを始めたんだけど、最初に書いた曲は「Pink Isn’t a Color」ってタイトルで、メンバー全員ピンクと青の服しか着なかった。それがわたしにとって最初のバンド。全員女の子のガールロックバンドだった。