メイド・イン・ジャパンは誰をエンパワーしたのか? 日本の楽器メーカーがもっと誇るべき話|2020年ベスト

歴史のない音、誰のものでもない音楽

そもそも日本の楽器メーカーは、世界の楽器メーカーのヒエラルキーのなかでいえば後発も後発ですし、西洋のものですらないわけです。「ストラディヴァリウス」や「スタインウェイ」といった欧米の名門工房が権威としてヒエラルキーの頂点にある。そんな世界に、日本のような非西洋国から数多くのメーカーが生まれ、それなりの規模の産業へと育っていくことがどうして可能だったのか実は謎ですし、どういうモチベーションだったのかもよくわからないんですが、とはいえ、非西洋の国でこれだけ楽器メーカーをもっている国って、他にないんですね。しかもそれが今となっては世界中で売られ、弾かれているんですよ。よくよく考えると、おかしいじゃないですか(笑)。で、さらにおかしいのは、日本人はほとんど誰一人それをおかしなことだと思ってないことなんですよ(笑)。クルマや家電はわかりますよ。国が貧困から抜け出して行くためのテコとしてそうしたものを国産で賄おうと考えるのは国の経済政策としては真っ当だとは思うので、そのモチベーションはわかるんですけど、楽器ですよ?(笑)。意味不明なんですよ、ほんとは。

加えて、日本の楽器メーカーは、西洋的な音楽の伝統のなかにそもそもいませんから、西洋の伝統的ブランドと比べるとはるかに身軽なはずですし、自由度も高かったはずなんですね。ですから、国全体としてエレクトロニクス技術が向上していくなかで、新しいチャレンジをどんどん試みることができた。浜松の駅前に楽器博物館っていうのがありまして、そこに世界中のさまざまな楽器が展示されているんですが、そこで一番面白いのは、戦後の日本の楽器メーカーが手がけた電子楽器のコーナーで、初期のギターシンセとか相当に珍妙なもので、笑っちゃうとともに、日本のメーカーのクリエイティビティの高さ、自由奔放さがよくわかるんです。



で、そうしたある種の身軽さのなかで、日本は電子楽器にどんどん取り組んでいくことになるんですが、そのなかで、やはりひとつのエポックとなったのはおそらくYAMAHA DX7というもので、これは最初期のデジタルシンセサイザーなわけですが、当時デジタルシンセといえば、それこそフランク・ザッパが『Jazz From Hell』で使ったシンクラヴィアは値段が1億円とかまことしやかに言われていましたし、ケイト・ブッシュが『Hounds of Love』で使ったFairlight CMIも相当に高価だったと聞きますから、要は、限られた超一流のアーティストしかアクセス権がなかったわけですね。ところがヤマハのDX7って、当時の定価が24万8000円だったそうですから、まあ、もちろん楽器として安くはありませんが、シンクラヴィアと比べたら桁が3つ少ないわけですから、やはり画期的だったわけですね。80年代にはヤマハやローランド、KORGなどが一緒になってMIDIの規格を作ったように、日本の企業が音楽のデジタル化を牽引し、その結果、やれることは無数に広がりながら、制作のコストはどんどん下がっていったわけです。

またDX7に先駆けて、1980年にはローランドのTR-808が発売され、「808」に代表されるドラムマシンの音色は、ヒップホップ〜トラップなどでいまでもよく耳にしますけど、デトロイト・テクノにも大きな影響を与えるなど、テクノミュージックの不可欠な要素のひとつにもなっていくわけですよね。


"伝説のドラムマシンTR-808が起こした、ポップス史における8つの革命"より(Photo by Courtesy of Atlantic Records)

テクノについて自分はそんなに詳しいわけではないんですが、ベルリン在住のある先生が教えてくれたことがとても印象に残っていまして、それはどういう話かというと、ベルリンの壁の崩壊後にテクノミュージックが果たした役割の大きさについてなのですが、テクノが重要だったのは、それが歴史性のないものだったからだ、と言うんですね。

どういうことかと言うと、これは一部自分の解釈が入ってしまうんですが、1991年のベルリンの壁の崩壊は、同じベルリン市民でありながら、それまで40年近くに渡って互いに相手の生きている環境を「悪魔に操られた地獄のような生活」だと吹き込まれてきた人たちが、いきなり今日から一緒に暮らしていく状況をもたらしたわけです。当然それは簡単なことではなく、いまだにドイツでは東ベルリン側への差別があるとも聞きます。南北朝鮮がいきなり統一して、南北の人びとが一緒に暮らしていくことを想像すれば、その大変さは想像できるかとも思うんですが、要は経済力も文化も習慣も思想もまったく違うわけです。

そういう非常に混乱した社会のなかで、東と西の人間が、お互いの歴史性や文化性をいったん脇に置いて出会うことのできる中立的な空間が重要な意味をもっていて、その役割を果たしたのがクラブだったというんです。そして、そこで鳴らされていたのは、非人間的であるがゆえに歴史的にも文化的にも中立的だったテクノミュージックだった、と。機械によって作られた「歴史性を背負わない音」であることがそこではとても重要で、そのときに、その音楽を生み出す楽器が、ある意味第三者的で中立的な、非西洋国によってつくられたことは、もしかしたら大きな意味をもっていたのかもしれません。

自分たちの困難と、そのなかで感じている苦しみや辛さを音楽として表現するためには、それまでにはない「新しい声」が必要になるわけですが、そのとき、誰かが使い回して、そのコンテクストがこびりついてしまったものではない、新しいツールが必要になるわけですよね。楽器がエンパワーメントになるというのは、そういうことじゃないですか。インターネット世代が自分たちの新しい感情を発露するためにはパソコンやAbletonのようなツールが不可欠であることとそれは同じだと思うんです。


テクノの重鎮、オービタルのセットに設置されたRoland Jupiter 6。1991年、ロンドンで撮影(Photo by Martyn Goodacre/Getty Images)

Edited by Toshiya Oguma

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