ローリン・ヒルが語る、アーティストの「名声」と「自己犠牲」

人は誰もが成長しなくてはならない

ー世間が望む「ローリン・ヒル像」が存在すると思いますか? それは本当のあなたとどう異なるのでしょうか?

間違いなく存在するし、先述の質問への回答でも少し触れているわ。人生は身をもって経験するものであり、あらゆるダイナミズムと色を存分に味わうべき。何かで人々を楽しませることができた場合、周囲から同じものを何度も求められがちになる。生身の人間がバランスを取らずにそれに応じようとすると、自分を抑圧しなくてはならず、成長することを完全にやめてしまう。人は誰もが成長しなくてはならないし、できる限り正直かつ誠実に自分を表現する必要がある。セレブリティはいつだって、食用に太らされる子牛のように犠牲にされ、型にはめられてノーマルだと批判され、アブノーマルな状況に対する解決策にされてしまう。

ステージに立つ前に感じる不安について語ったある人が糾弾されるのを見たことがあって、まるで有名人が不安を知っているはずがないというような言われ方だった。レコードを出しているアーティストは風邪をひいたことがないと言ってるようなもので、ものすごく馬鹿げてる。アートに心を奪われた人々は恐れや不安を感じないわけではなく、それらを昇華したり乗り越えたりすることで、作品や情熱をマニフェストとして成立させようとベストを尽くしているにすぎない。時には素晴らしい経験に恵まれ、時間とともに状況が改善していくこともあれば、そうでない場合もある。その不公平さと無慈悲さは、耐え難いほどだと私は感じてる。自分がどんな風に扱われているのか、私は自覚していない時もあった。私はひどい扱いを受けていたし、私が得たものに貢献した誰かから非難され、凄まじいほどの嫉妬と対抗心に晒されてた。それによって消耗したりフラストレーションを抱えた状況からは、怒りに満ちた音楽しか生まれ得ない。

そういう攻撃性を喚起させることは、相手が意図したことだったと思う。そういった醜いものに晒されている時でも、自分を奮い立たせる理由を見つけないといけない。世間は全てを手に入れた人、多くを手にした人に対してはどんなイメージを植え付けても構わないと思い込みがちなの。ヒーローを崇めるという行為は、自分のことを棚にあげるための言い訳にされてしまう。人が自尊心を自分以外の誰かに支えてもらっている場合、賞賛の裏にはものすごく醜くて粗暴な敵対心が潜んでいる。それに耐えるか立ち向かうかはその人次第。そういう状況を何年も経験してから、私は立ち向かうことに決めた。ノーと言うことを覚え、いつしか絶対にノーという言い方に変わり、やがて死んでもノーだと口にするようになった。

Translated by Masaaki Yoshida

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