映画『ヤクザと家族』藤井道人監督が語る、義理人情の尊さと「FAMILIA」MV制作秘話

『ヤクザと家族 The Family』出演の舘ひろしと主演の綾野剛(©2021『ヤクザと家族 The Family』製作委員会)

大ヒット公開中の綾野剛主演の映画『ヤクザと家族 The Family』。ヤクザをモチーフにした作品にもかかわらず、今年の邦画話題作の筆頭であり、役者・綾野剛の最高傑作という声も多い。監督は映画『新聞記者』で日本アカデミー賞最優秀作品賞に輝いた藤井道人。映画公開日の当日、藤井監督に本作をめぐる社会的な背景、そして映画のアナザーストーリーでもある藤井自らが監督を務めた映画主題歌、常田大希率いるmillennium parade「FAMILIA」のMVについて話を聞いた。

ーヤクザをモチーフに選んだ理由は?

『新聞記者』という映画を、スターサンズ(映画製作・配給会社)と撮り終わって、クランクアップしてすぐにスターサンズの河村プロデューサーと『次は何やる?』という話になったんです。色々と話し合った中で、河村さんとの接地面が“ヤクザ”だった。僕自身が中野という街に育ち、新宿で青春を過ごした人間なので、ヤクザは遠い存在ではなくて。ただ、中に入ることは許されないし、あまり内情は分からなかったのですが、そこに対して河村さんと一緒に何か作っていこうということ自体に興味が湧いて、企画を作っていったって感じですね。

―ヤクザがモチーフの映画というと、2019年公開の映画『帰れない二人』がありました。

観ました。最高でした。ジャ・ジャンクー監督作品ですね。実は、『帰れない二人』はこの映画のクランクインちょっと前ぐらいに観ちゃったんです。観ながら「おい!ジャ・ジャンクーはやめてよ!」「もうやめて、今からヤクザ映画撮んだから!」って、思いましたね(笑)。

―本作『ヤクザと家族』もジャ・ジャンクー『帰れない二人』でも、ヤクザ社会にある、義理人情の世界が、社会の近代化の中で崩壊するばかりか、私たちの社会から義理人情の世界が失われて行く様を描いています。実際のところ、今のヤクザ社会では昔ながらの義理人情は存在しないのでしょうか?

僕自身がヤクザ社会の当事者ではないので、こうですよとは言えないんですけど、聞いた感じでは、現実は昔の任侠映画のように華々しいものではないそうです。今回、監修役に元ヤクザで作家の沖田臥竜さんが参加してくれたのですが、沖田さんからすると、今のVシネの極道映画は、別の世界を観ているみたいな感じがするそうです。

―『ヤクザと家族』になぞっていうと、義理人情の社会が、平成から令和に移る時代の中で、日本からごっそりと抜け落ちていったと?

そうですね。社会が浄化されていく中で、残るべき“義理人情”がハラスメントといった類のものと混同されがちになったなぁと最近すごく強く感じていますね。受け取り側の気持ちの問題みたいになっていて。それでいうと昔の体罰って何だったんだろうなって思うんです。僕は自分が受けた感覚と他の人が受けた感覚は違うから、体罰は課さないんです。けど、当時、謎に殴られた経験が大人になってすごく活きているので、僕は体罰が全部悪くないと、どこかで思っちゃうんですよね。あの時の古いしきたりというか。それが今必要とされていない時代なことも自覚していて、すごい複雑ですね。


出演者の舘ひろしと藤井監督(©2021『ヤクザと家族 The Family』製作委員会)


―そういう“古いしきたり”的なものを失うと社会的な損失があると思います。少し違いますが、コロナ禍で、去年は新しいバンドってほぼ誕生していない。スタジオに入れないし、ライブもできなかった。バンドデビューした若い人達がいないことが、3年後4年後に効いてくるはずです。

それはそう思いますね。

―お金の損失じゃない、そういう損失をもう少し私たちは想像しなきゃいけないはず。監督は本作で描かれている義理人情がなくなっていく社会的な損失をどう感じていますか?

“距離”ですかね。人と人の間に距離ができてしまった。そもそもソーシャルディスタンスって変な言葉だなって思うんです。ハグみたいな、ちょっとした愛情表現にみんな踏み込まなくなっていくと思うんですよ、今後さらに。だから空気に触れるように人とコミュニケーションを取ることに自分の恐怖を感じています。映画って、ガッツリ飯食いながら、いやー、あそこどうだったね、こうだったねっていうコミュニケーションの時間全部が無駄にならない創作なんです。批判も肯定も全てがありなんですけど、そういうコミュニケーションそのものが難しくなってきていて。その距離感を、今まであまり感じてなかったんですけど最近感じるんです。例えば、若いスタッフが、寝坊して現場に来て、俺が「何してん?」っていう。これって愛情なんですよ。寝坊するのは自分にプロとしての自覚がないから。どうしてもしんどいなら俺が起きろコールしてやるからって言っても、向こうはすっごい凹んじゃうんです。「凹むなよ。“さーせん”でいいんだよ」と、言っても、「いや・・・」みたいになってしまう。そういう一個一個が変わってきていて、既に自分の時代とはちょっと違うなって。年齢的には10年ぐらいしか変わらないんですけど。でも、それは人によるのかもしれないですけどね。今は目に見えない距離感がすごく難しいなって思います。


主演の綾野剛と藤井監督(©2021『ヤクザと家族 The Family』製作委員会)


―そういうところにも義理人情みたいな見えないものの損失が出てきていると。同時に、見えるもの、数値化できるものにしか信じない時代になりつつある。みんな内容よりもSNSの“いいね”の数に一喜一憂してる。『ヤクザと家族』の中でも、組の人々は、事務所にパソコンを置いて、時代に乗る努力をしながらも、大切なものはこれじゃない的に葛藤をしていますよね。

社会に対して置いてきぼりになった人達を、ちゃんと描ければなと思ったんです。僕自身、社会に出て確定申告すら分からなくて。パソコンが全然使えないんです。やっぱり置いていかれている感覚になってしまいます。コロナ禍の補償のシステムも見たんですけど、こんな面倒臭いんだって思いましたし。そういうことが一個もできない人もいると思うんですよ。で、できないからいいやってなっちゃう人もいるはずです。その社会からこぼれ落ちたり、置いていかれそうになった人達がどう生きていくのかみたいなものは、この映画の中でちゃんと描きたかった。逆にそこが唯一の接地面でもあると思うし。ヤクザっていうちょっと遠い人達と、僕らみたいな人間との接地面って、社会から取り残される恐怖みたいな、排除される恐怖みたいなのが、あるということです。少なくとも僕にはある。実際、映画業界も今は排除対象にはなってきていると思いますし。音楽もたぶんそうだと思います。芸術は不要不急でないと言われてしまうと、あれ?今までそんなこと一回も言われてなかったけど、めっちゃ否定されてるじゃん俺達っていう感じです。悔しいですけど。

―不要不急の話でいくと、本来不要不急なものは人によって違うはず。人類共通の不要不急なものはない。ある人によっては映画に行くこと、コンサートに行くことが一番大事な場合もある。喫煙だってルールを守れば、喫いたい人は喫えばいい。そういう個人の判断は尊重されるべきなのに、それが許されない不寛容さ、多様性を認めない空気感が非常に怖いなと。

この話は義理人情から一本の線で繋がっていると思っていて。やっぱり義理人情って寛容さだと思っているので。人が過ちを犯したとしても、ミスを犯しても、学べばいい、社会でもう一度やり直せばいいっていう寛容さが、逆に今不寛容さになってしまっている。はい!人生の生き残りゲームから落第。はい!お疲れさまでした!みたいな感じです。それがここ数年すごく色濃いなと思っていて。その中から上級国民みたいな言葉が出てきたり。人を区別するそういう風潮に対しての疑問みたいなものはすごくありますね。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE