岡林信康とともにフォークの神様と呼ばれた当時を振り返る

(スタジオ)

田家:次のインタビューは、CBSソニーから出た復活アルバム『金色のライオン』。プロデュースが、はっぴいえんどを解散して作詞家になる前の松本隆さんなんです。お聴きいただくのはアルバムの中の「26ばんめの秋」です。

(インタビュー)


岡林信康

田家:『金色のライオン』の松本隆さんをプロデューサーに、というのは岡林さんの希望だったんですか?

岡林:そうやね。2年くらい歌を書かずにいたんだけど、なんとなく歌ができてきて。それを当時のURCレコードの生き残りの高木くんが松本くんを連れてきてくれたのかな。俺はあの時に歌が一曲できてて、タイトルがつけられなくて困ってるんだって言って歌ったら、松本くんが一回聴いただけで「それは"26ばんめの秋"だ」って言ったの。

田家:それが「26ばんめの秋」なんですね。

岡林:俺はその時にね、正直言うとジェラシーを感じた。こいつすごいな、と。俺がどう考えてもタイトルつかなかったのに、一回聴いただけで"26ばんめの秋"ってすごいタイトルよ。あれ以外のタイトルは考えられないもん。こいつひょっとしたら天才ちゃうかな、ってジェラシー感じてね。そいつがその後、芸能界のど真ん中に突っ込んでいってヒットメイカーになったっていうのは、あいつの才能からしたらどうってことないなと思ってる。

田家:「26ばんめの秋」ができた時は、アルバムは完成していたんですか?

岡林:まだ完成してない。2、3曲できてたくらいかな。それで松本隆のプロデュースが決まって、じゃあ俺も頑張って曲作るからアルバム作ろうやって言ってね。2年ほどブランクがあった気がするんだけど、そこからなんだかんだバーっと歌を書いた気がするね。



田家:これは松本さんの記憶なんですが、『誰ぞこの子に愛の手を』を出した後に岡林さんが松本さんの住んでいた、たまプラーザに行かれて、松本さんのところに電話したんですって。駅にいるって言うから、松本さんがそこまで来たならうちにおいでよって言ったら、俺はこれから演歌に行くから松本には会えない、と言ってお帰りになったと。

岡林:あのね、俺が『誰ぞこの子に愛の手を』を作った後に突如演歌をやりたくなったやんか。松本くんのところに遊びに行った時には、「月の夜汽車」っていう曲だけ出来ていたのよ。俺が演歌やったら、松本は猛反対するやろと思っていたし、クソ味噌に言うんじゃないかと思って歌ったら、あいつがサイコーだって言ったのよ。それでびっくりして、松本プロデュースでソニーから演歌アルバム出そうかっていう話になりかけていたんだけど、その時に俺はひばりさんと出会ってしまったのよ。交流もできて、演歌をやるなら日本コロンビアしょって言われた。松本の家の近くまで行ったんだけど、俺はそれを松本に言えなくて帰った。それを電話で言うたかもわからんな。

田家:なるほどね。

岡林:プロデュースして欲しかったけど、俺はコロンビアに行くから無理だと。会うと未練が出てくるから、俺はこのまま帰るよって言ったと思う。

田家:なるほど。この話の続きはまた来週しましょう。

Rolling Stone Japan 編集部

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