岡林信康とともにフォークの神様と呼ばれた当時を振り返る

(スタジオ)

田家:岡林さんが京都の綾部に引っ込んで、畑仕事をするようになって生活環境も変わり、聴く音楽も変わって、こういう音楽が好きな自分もいると思って演歌をやることになるんです。「月の夜汽車」は、美空ひばりさんが歌ってシングルにもなります。松本隆さんのこの話は、私が松本隆さんの50周年の企画の連載の取材で聞きました。そういうことだったんだな、というのを今日初めて知りました。1975年、岡林信康はCBSソニーで2枚目のアルバム『誰ぞこの子に愛の手を』を作った後に、日本コロンビアに移籍して演歌をやるようになります。この話はまた来週。



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」岡林信康特集Part2 URC、CBSソニー編、1969年のアルバム『わたしを断罪せよ』から、1975年のアルバム『誰ぞこの子に愛の手を』までの時代をたどってみました。流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

1969年から1975年の6年間、この頃は1年が10年分くらいに感じられたとても激しい変化の時代でしたね。政治の季節が終わって、音楽の時代になっていくわけです。フォークやロックがアマチュアの手を離れて、商業化していく時代でもありました。そして、アマチュア時代の政治的なメッセージや社会的なことを歌うフォークが好きだったフォークファンの矢面に、岡林さんが立たされたんですね。裏切ったとか逃げたとか叩かれて、田舎に引っ込んでしまいました。

1971年の日比谷野音で行われた「狂い咲き」の3枚組ライブアルバムがありますが、これがほぼ最後のライブになります。でも、1973年に『金色のライオン』を出した後に東京・晴海国際貿易センター新館でオールナイトライブをやっているんですが、これも2枚組ライブアルバムになっています。1973年12月31日に行われたもので、アルバム『金色のライオン』のドラムは松本さんですが、このライブでも松本隆さんドラム・細野晴臣さんベース。このライブは、「狂い咲き」をしのぐ傑作だと僕は思ってます。機会があったら聞いてみてください。次回は、フォークの神様が演歌になった話です。



<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

Rolling Stone Japan 編集部

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