北欧ブラックメタル「血塗られた名盤」 メイヘムのメンバーが明かす壮絶な制作秘話

メイヘム(Courtesy of Ecstatic Peace Library © Jørn "Necrobutcher" Stubberud)


1991年4月、ヴォーカリストが自殺

80年代のほとんどをバンドのサウンド向上に費やし、度重なるメンバーチェンジを繰り返したメイヘムは、90年代に入ると自分たちらしい確固たるグルーヴにたどり着き、メンバーも安定する。当時はボーカリストのデッド(本名:ペル・イングヴェ・オリーン)、ユーロニモス、ネクロブッチャー(ヨルン・ストゥッベルト)、ヘルハマーというラインナップだった。このメンバーに固定する以前、彼らはデスメタル寄りのEP『Deathcrush』(邦題:破滅死)をリリースしており、1991年にはデビュー・フルアルバム『De Mysteriis Dom Sathanas』の試聴盤をメタル系メディアに発送していた。「究極の事件が起きない限り、もうこれ以上遅らせることはない」と、当時ユーロニモスはSlayer Magazineに話しており、まだ3曲を追加で作っている最中とも明かしていた。ユーロニモスが言うリリースを遅らせるに足りる“究極の事件”とは「例えばヘルハマーがまた失踪するとか、デッドがギグで深く切りすぎたとか、俺がアルバニアでパスポートを失くしたとか」だった。

このとき、ユーロニモスはヨーロッパ本土での直近のツアーを念頭に置いて発言したのだが、ヘルハマーはこのツアーが耐え難いほど辛かったと記憶している。「本当にひどかった。実際、俺の人生で最悪の経験があれだ」とヘルハマー。彼らはバスではなく、機材を列車に積んで、ヨーロッパ大陸に広がる頑丈な鉄道網を使って移動することにした。ヘルハマーはお金を盗まれたこと、夜に宿がなかったことなどを今でも覚えている。トルコではライブ会場に機関銃を抱えた警察が突撃してきて彼らを抑え込んだ。「あんなことは二度とできないよ」とヘルハマー。

ステージでは別の種類の恐怖が起きていた。デッドの顔には白黒の化粧が施されており、この死を想起させる見た目は「死体ペイント」として知られるようになった。そして、デッドが衣装を土に埋めて死のアロマを漂わせていたというのが通説だった。「ステージには棒に突き刺した豚の頭部があったし、俺は奇妙なナイフで自分の腕を切り、コーラの瓶を割っていた」と、書籍『Metalion: The Slayer Mag Diaries』に収録されているSlayer Magazineのインタビューで、ある夜のギグについて語っている。「そこにはチェーンソーもある予定だったが、楽屋に取りに行ったら会場のオーナーが帰ったあとだった。おかげで残忍さが足りなかったね」



そんな状況でもお構いなしに、メイヘムはこのツアー中に新曲の試運転の機会も得た。1990年にドイツで録音されたライヴ・アルバム『Live in Leipzig』には、のちに1stアルバム『De Mysteriis Dom Sathanas』に収録された4曲を、デッドがライブで歌っているパフォーマンスが収められている。しかし、それが彼の運命だったのか、デッドがスタジオで歌った曲は1曲だけだった。1991年4月、彼は手首と喉を切り裂いたあと、ショットガンで頭を撃ち抜いて自殺した。遺書の最初の一文は「血で汚してすまない」だった。

ユーロニモスは当局を呼ぶ前にデッドの写真を撮影し、これがネクロブッチャーのトラウマとなり、バンドを脱退した。ネクロブッチャーが抜けたあとを埋めるためにユーロニモスはヴィーケネスを呼んだ。それまでの彼はユーロニモスのデスライク・サイレンス・プロダクションズのレコード・レーベルに所属していたワンマンバンド、バーズムとして、ブラックメタルのアルバムを複数枚レコーディングしていた。

Translated by Miki Nakayama

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