ジャイルス・ピーターソンが語る、ブリット・ファンクとUK音楽史のミッシングリンク

ブリット・ファンクとジャズ・ダンスの繋がり

―ジャズ・ダンスのカルチャーではDJやバンドだけでなく、Jazz DefeckorsやI.D.J.(※1)、Brothers in Jazzといったダンサーのクルーが重要な役割を果たしました。ブリット・ファンクではどんなダンサーが踊っていたんですか?

ジャイルス:まず、ブリット・ファンクとジャズ・ファンクの繋がりを語る上で重要なクラブというのがあって、それがロンドンにあったクラッカーズ(Crackers)なんだ。クラッカーズにはトレヴァー・シャークス(※2)やポール・アンダーソン(※3)、ジョージ・パワー(※4)なんかがいた。彼らはディスコとアメリカン・ファンク、そしてブギーに少しのジャズをミックスしていた。ジャズ・ファンクやディスコ・ジャズのような感じでね。I.D.J.のダンサー、ジェリー・バリーはクラッカーズの顔だったよ。つまり、ジャズ・ダンスのシーンの一部として枝分かれしていく前は、ブリット・ファンクはクラッカーズの文化の一部だったんだ。

※1:80年代のジャズ・ダンスのムーブメントを代表するダンス・チーム。名前は「I Dance Jazz」の略。
※2:Trevor Shakes 70年代後半にロンドンのウエストエンド地区で活動していた伝説的なダンサー
※3:Paul Anderson クラッカーズを代表するダンサー。70年代末以降、当時白人ばかりだったシーンで黒人DJの先駆者として活躍した。
※4:George Power クラッカーを代表するDJ。選曲はソウルやジャズ・ファンクなど。黒人へ場を開放し、反人種差別的方針で知られる。
参照:https://daily.redbullmusicacademy.com/2013/03/nightclubbing-crackers


I.D.J.がジャズダンスを披露、演奏はコートニー・パイン。

―なるほど。

ジャイルス:そして、ジャズ・ダンスを語る上で重要なクラブは、ポール・マーフィー(※1)がプレイしていたロンドンのElectric Ballroomと、トッテナム・コート・ロードにあったHorseshoeだ。僕が初めてタニア・マリア(※2)を見たのはHorseshoeだったよ。ジェイ・ホガード(※3)も、ヒース・ブラザース(※4)もいたね。Electric BallroomとHorseshoeでは、ポール・マーフィーが「Jazz Room」を立ち上げたのも大きかった。ポール・マーフィーはロンドンのジャズ・ダンス・シーンにおける最重要人物。ジャズ・ファンクとジャズ・ダンスの繋がりを理解する上で避けては通れない存在だ。

※1:Paul Murphy ジャズ・ダンス・ムーブメントにおけるジャズDJのパイオニア。80年代初頭に伝説的なイベント「Jazz Room」を開催し、そこからジャイルス・ピーターソンら多数のDJを輩出した 。
※2:Tania Maria ブラジル人のジャズ/フュージョン系のヴォーカリスト/ピアニスト。イギリスのクラブシーンに多大な影響を与えた。代表曲「Come With Me」。
※3:Jay Hoggard アメリカ人のジャズ・ヴィブラフォン奏者。イギリスのクラブシーンで「Ojala」が人気だった。
※4:Heath Brothers アメリカのスピリチュアルジャズ系グループ。ストラタ・イーストからリリースした『Marchin’ On』(1975年)はクラブシーンの人気盤。


BBCの番組「Whistle Test」で紹介された、ポール・マーフィーのイベント「Jazz Room」の様子。I.D.J.も登場(3:45〜あたり)。

Translated by Aoi Nameraishi

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