ピンク・フロイド初来日の衝撃とは? 「箱根アフロディーテ」目撃者が語る真相

1971年8月6日、「箱根アフロディーテ」会場で撮影されたピンク・フロイドの4人(Photo by Koh Hasebe/Shinko Music/Getty Images)

ピンク・フロイド初来日公演「箱根アフロディーテ」の新発見映像を収録した日本独自企画『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』がリリースされた。半世紀を経過した今も、このフェスが伝説として語り継がれる理由とは? 歴史的ステージを目撃した保科好宏に振り返ってもらった。さらに記事の後半では、同じく箱根のライブに衝撃を受けた岡井大二(四人囃子)との対談記事もお届けする。

【写真を見る】日本初の野外フェス「箱根アフロディーテ」貴重写真(全17点)

「箱根アフロディーテでピンク・フロイドが来日するよ! 」。最初にそのニュースを聞いたのは、東京の音楽関係の友人からの電話だった。まだインターネットも携帯電話も無かった1971年、洋楽関係の情報は音楽誌かラジオの音楽番組だけが頼りだった時代、長野に住んでいた僕にとって、チケットの手配もしてくれたこの友人の存在は実に大きかった。

当時、高校2年生だった僕はこの年、4月に生まれて初めて観たイギリスのロック・バンド、フリーのライヴに衝撃を受けてロックの魅力に取り憑かれ、7月にグランド・ファンク・レイルロードを雷雨の後楽園球場で体験し、それから僅か3週間後に行ったのが、箱根アフロディーテだった。(翌9月にはレッド・ツェッペリンの初来日公演も体験!)




〈上〉1971年のピンク・フロイド来日記念盤として発売された『ピンク・フロイドの道』(筆者所有)〈下〉バンド初来日時、同作のジャケット見開き部分にもらった直筆サイン

ただ、まだ17歳になったばかりの僕にとってピンク・フロイドの音楽は、正直少し難しいというか、決して親しみ易いものではなかった。と言うのも6学年上の兄の影響でビートルズを始めとする洋楽全般に親しんで育ったとはいえ、ポップス〜ロックの音楽スタイルが著しい進化を遂げて多様化した激動の60年代後半、サイケデリック時代を経てプログレッシヴ・ロックと呼ばれるようになったピンク・フロイドの音楽は、それまでのロックとは異質に感じられたからだ。と言うのも一般的なロック/ポップは、耳馴染みの良いヴォーカル・メロディを軽快なビート、リズムに乗せて聴かせるスタイルが主流だったのに対し、ピンク・フロイドの場合、彼らの音楽に身を任せ、深く入り込むことでそのサウンドの世界観を楽しむという、クラシック音楽的な接し方を求めるようなところがあったからだ。それまで分かり易いハード・ロック的勢いや乗り、ヒット・シングルを一緒に歌って楽しむことに慣れていた10代のロック少年には最初、少し敷居が高く感じられたのも当然かもしれない。

もちろん、前年の1970年にリリースされた『原子心母』が全英チャートNo.1となり、キング・クリムゾンやエマーソン・レイク&パーマー等と共に、新時代を牽引する話題のプログレッシヴ・ロック・バンドとして各方面から注目を浴びる存在というのは知っていた。ただ熱心なロック・ファン以外には大ヒット曲があるわけでもない彼らの存在は、一般的にはまだマイナーで、共演した1910フルーツガム・カンパニーの方が知名度では上だったかもしれない。またもう一つの理由として、欧米ではヒッピー〜サイケ・カルチャーの中で彼らの音楽が支持されたのは、マリファナやLSDなどドラッグと親和性が高かったからで、ほぼそういったカルチャーとは無縁だった一般的な日本人には当初、彼らの魅力はなかなかストレートに理解されなかったのではないかと思う。


『50周年記念盤』 特典、「箱根アフロディーテ」フライヤー

それはともかく、1971年に箱根アフロディーテが開催された事は、海外のロック・アーティストを招いての野外ロック・フェスティバルとしては日本初、その後のフジロックに先駆けること26年も前だった事を考えると歴史的なイベントだったのは疑いようもない。それまで僕が野外フェスについて知っていたことと言えば、その1年前の夏に日本で公開された映画『ウッドストック』(開催は69年)を観て、60年代ユース・カルチャーの祭典のような自由すぎるロック・フェスの知識しかなかった高校生には、ジャズやフォーク系の日本の出演者が多かった箱根アフロディーテは、期待していたロック・フェスと違ったのは確かだが、とにかくあの場でピンク・フロイドを観られたことが全てだった。

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