ピンク・フロイド初来日の衝撃とは? 「箱根アフロディーテ」目撃者が語る真相

箱根アフロディーテを巡る対談 岡井大二×保科好宏

箱根アフロディーテの映像は、ピンク・フロイドが2016年に発表した全27枚組のボックスセット『The Early Years1965-1972』で初めて公式収録された(こちらはブートで出回っていたものと同画質)。ここからお届けする対談はそのとき収録されたもの。実際に箱根でピンク・フロイドを体験した岡井大二(四人囃子)と、前掲の記事を執筆した保科好宏が当時の想い出を語り合った。

※この対談はレコード・コレクターズ2016年12月号に掲載された記事を一部再編集したものです。

保科:箱根アフロディーテがあった71年は、日本に於けるロック元年といえる年だったよね。4月にフリー、6月にシカゴ、7月にグランド・ファンク・レイルロード、9月にレッド・ツェッペリンと、ひと月に1組くらいロック・バンドが来日するようになって。

岡井:キョードー東京の“ロック・カーニバル”シリーズが70年12月のジョン・メイオールから始まって続々来日し始めたから期待はしていたけど、まだピンク・フロイドの来日はずっと先だろうと勝手に思ってた。ヒット曲がたくさんあって誰もが親しめるタイプのバンドじゃないからね。

保科:ロックの野外フェスティヴァルも、ピンク・フロイドの箱根が日本初だったんじゃないかな。

岡井:フロイドの関東での公演は箱根だけだったからね。

保科:当日はバスで行ったの?

岡井:僕は小田急線で行った。高校の同級生と3人で。

保科:僕は新宿から会場直行のバス・ツアーに参加して。高校2年生だったから大二は高3だね。

岡井:じゃあ翌年、四人囃子を長野に呼んでくれた時は高校3年?

保科:そう。アフロディーテから半年後くらいに東京で観た四人囃子が、フロイドの完璧なカバーを演っているのを観て、その巧さに感激してね。ところで四人囃子で箱根に行ったのは大二だけ?

岡井:そう(※)。で、これはとんでもないバンドだから、みんな絶対見なきゃダメだと。翌日、東京に戻ってすぐ四人囃子のマネージャーだった兄とメンバーに大阪に観に行くべきだと力説してね。月曜にメンバー全員で新幹線に乗ってフェスティバルホールに向かったと(笑)。ちょうど四人囃子になってすぐの頃だね。それで帰りは興奮状態のまま夜行電車で帰ったんだけど、観るまではプログレっぽいものに興味が無かったメンバーもこの音楽は良いかもと共通認が生まれて。この時に四人囃子の方向性が決まったというか。

※RSJ編注:これは記憶違いで、実際は坂下秀実(Key)も友人と現地にいた。


1971年、ピンク・フロイドの大阪フェスティバルホール公演にて


四人囃子による日本のロックを代表する名盤『一触即発』(1974年)

保科:ちょうど日本では来日した年の1月に『原子心母』が出て。

岡井:アフロディーテでは「エコーズ」(次作『おせっかい』収録)を演奏してるけど、当時は未発表の新曲でね。今考えるとよくあの人たちが1年ごとにアルバムを出せたよね(笑)。時代なんだね。あの頃って回転が早いんだな。

保科:もう45年も前だけど、アフロディーテで覚えていることは?

岡井:それが日本の諸先輩アーティストには悪いんだけど、ひたすらピンク・フロイドが出てくるのをいい場所確保して待ってたんでメイン・ステージの1910フルーツガム・カンパニーとバフィ・セント・メリーしか覚えてない。

保科:僕も同じ(笑)。日本のバンドはサブステージに出ていたようだけど、一度も行かなかったし。

岡井:フルーツガム・カンパニーは音楽がテレビ・タレントだなあという感じに聞こえちゃって。レコードは大好きだけど。バフィ・セントメリーは弾き語りで、クオリティ高かったよね。何かやっぱり違うなって感じで(笑)。

保科:そうだね。「サークル・ゲーム」もヒットしてたしね。多分、日本のアーティストも同じステージで観てるんだけど、あまりにフロイドが凄すぎたせいか他の記憶が飛んじゃったみたいな(笑)。


1910フルーツガム・カンパニーのデビュー曲「サイモン・セッズ」(1968年)は日本でもヒット。


バフィ・セントメリー「サークル・ゲーム」(ジョニ・ミッチェルのカバー)は1970年公開の映画『いちご白書』の主題歌。近年ではクエンティン・タランティーノ監督『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でも使われた。

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