ジョージ・ハリスン『オール・シングス・マスト・パス』関係者が語るリイシューの意義、フィル・スペクターの功罪

ジョージ・ハリスン(Photo by Barry Feinstein)


狂気じみたスペクターのやり方

スペクターは気まぐれなことで有名なプロデューサーだったが、ジョージは『レット・イット・ビー』のポストプロダクションでの仕事ぶりを買い、自らのアルバムのプロデューサーにスペクターを起用した。素材もミュージシャンも揃っていた。別の方面でも準備万全だった。フォアマンの記憶によれば、ジョージは参加者ができるだけ居心地よくなるように、キャンドルを灯してスタジオに小さな祭壇を設けたそうだ。ジョージも一員だったハレー・クリシュナ運動の信奉者たちがスタジオを訪れては、ベジタリアン用の食事を持ってきたという(ロンドン郊外のフライアーパークにあるジョージ邸の庭の手入れまでしていたそうだ)。

スペクターがロサンゼルスから到着すると、収録は本格的に進められた。スペクターには独自のやり方があった。当時20歳でテープ操作を担当していたジョン・レッキーはこう振り返る。「明け方に照明を落として、大音量で音楽を流し、ギンギンにエアコンをかけていましたよ」。可能な限りスタジオを冷やしたい、というスペクターの意向によるものだ。

クラプトンものちに、「スタジオでは何百人のミュージシャンが、みな髪を振り乱して演奏していた」ようなレコーディングだったと述懐している。だが、狂気じみたスペクターのやり方の裏にも彼なりの考えがあった。「酒やドラッグや銃は厳禁でした」とリッキー。「フィルは演奏の指示を出し、そのあとの流れを決めました。ミュージシャンに演奏を止めては、他の人がどんな演奏をしていたか質問しました。『ピアノの音を変えていたね』とか。でもみな彼を尊敬していましたし、最終判断はジョージが下していました」。フォアマンもこう付け加えた。「みんなフィルはクレイジーだと言うが、彼はちっともクレイジーじゃなかった。すごく仕事がしやすかったよ。演奏にじっくり耳を傾けてくれた。俺が何か演奏するたびに『これでいいか?』と尋ねると、彼は『ああ、それでいい、それでいい』と言ったものさ」



ミュージシャンの顔ぶれは定期的に変わった。フォアマンもドラマーのジム・ゴードンと演奏することもあれば、リンゴ・スターと組むこともあったし、別の機会にはビリー・プレストンとゲリー・ライト(スプーキー・トゥース、のちにソロとして活躍)という2人のキーボード奏者といっぺんに演奏したこともあった。「普通はスタジオでリハーサルをするんだが」とフォアマンは続けた。「そういうのは一切なかった。スタジオにいきなり入るんだ。俺たちの大半が曲を一度も聞いたことなくて、それでも通しで演奏した。そりゃあ時間はかかったよ。スタジオ代もね」

フォアマンいわく、初めのころジョージはスペクターの仕事ぶりに若干懸念を抱いていたそうだ。「最初のころ収録した曲に『ワー・ワー』があった。あれをレコーディングしたときは圧倒されたよ」とフォアマン。「こいつはまさにフィルの傑作だ、ガラスのように繊細でありながら、ハードなサウンドだと思ったよ。ただ、ジョージは気に入っていなかった。彼が求めていたアルバムの方向性とは違っていたんだ。でも、だんだん彼も気に入っていったよ」

当時自分らしさを模索していたジョージにとって、レコーディング作業は文字通り、象徴的な意味でも、自信を与えてくれた。ビートルズのために書いた曲が何年も拒絶された後だからなおさらだった。「あのアルバムの制作は本当に最高の経験だった。音楽的に少しナーバスになっていたからね」と、1976年にジョージも語っている。「スタジオに大勢いて迎えて、『ああ、なんて最高な曲ばかりだろう!』と思ったのを覚えている。みんなの前で曲を演奏すると、『ワオ! 傑作だよ』と言ってくれる。それで俺も『本当かい? 本当にいいと思うかい?』 それで納得できたんだ」

「ジョージはご機嫌そうでした。楽しくて、いい雰囲気だったのが伝わってきます」。当時のテープを聞いてヒックスはこう語る。「彼がこれらの楽曲をずっと温めていて、いつか世に出したいと思っていたことはみな知っていました。ようやく吐き出せて、彼も一安心といったところでしょうね」

Translated by Akiko Kato

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