ザ・スパイダースが与えたシーンへの影響、当時のプロデューサー本城和治と振り返る

バン・バン・バン / ザ・スパイダース

田家:196710月発売になった「いつまでもどこまでも」のカップリング曲ですね。両A面シングルという言葉も当時なかったですね。

本城:そうですね。この「バン・バン・バン」はステージ用に作った曲だったんですけどね。

田家:「いつまでもどこまでも」は作詞が佐々木ひろとさん、作曲がかまやつひろしさん。この二曲はどんな意図だったんですか。

本城:A面はポップソングでB面がロックで彼らの特徴を色々合わせて。「バン・バン・バン」は、ザ・スパイダースらしいロックナンバーで未だにロックのライブの最後もこれで盛り上がる。これは日本で初めて日本のロックで盛り上がる曲だったんですね。

田家:ジョニー・B.グッドで盛り上がるみたいな(笑)。スパイダースは1966年にシングル6枚、1967年にシングル5枚、アルバム4枚とかなり忙しかったんじゃないですか?

本城:そうですね。色々なアーティストも手掛けてましたし。でも当時はまだマルチじゃなかったので、ダビング作業も多くなくて。当時は2チャンネルが主流でしたがビクターは6チャンネルの中途半端なマルチだったので。8チャンネルになるまではそんなにマルチらしい使い方はできなかったですけど。

田家:11曲くらい?

本城:もっと録っていたんじゃないですかね? 歌謡曲でしたら2時間でA,B2曲とか各ディレクターが時間を決めてやっていたので。私は押しちゃうので、昼間は使わせてもらえなくて、夜皆が終わってからって言われたりもして(笑)。メンバーも皆忙しいですから深夜に録るようなことがだんだん多くなりました。

田家:レコーディングに時間かかるようになったのは、メンバーのこだわりが変わってきたのもあるんですか?

本城:それと録り方が普通の歌謡曲と違ってヘッドアレンジみたいな録り方でしたからね。その場でコードを書いて、ボーカルはまだメロディも知らない段階で録り始めることもあって。リハーサルする時間もないですから。スタジオで初めて曲を知って覚えるということもありました。

田家:中には驚いたような曲もあったでしょうね。俺が歌うわけ? みたいな。

本城:それまでスタジオの廊下でいびきかいて寝てるところを、歌の番だよって起こしに行ったりしてました(笑)。

田家:そういうレコーディングってそれまであまりなかったですか?

本城:そう思いますけどね。やっぱりこういうロックとかフォークとか譜面のない録音からでしょうね。

田家:ザ・スパイダースはヘッドアレンジをしていた第一号のロックバンドなんですね。

本城:最初はステージでやってるナンバーも多かったですけど、だんだんオリジナルが増えてスタジオでヘッドアレンジもするようになりましたね。

田家:本城さんが選ばれた次の曲はそういう中で生まれた曲と言えるのでしょうか。19689月発売15枚目のシングル「黒ゆりの詩」。

Rolling Stone Japan 編集部

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE