基本的に現在では障害に関して「社会モデル」で考えます。しかし、ここにも問題はあります。障害に関して社会に目を向けることは良いのですが、それによって個々のインペアメントを軽視してはならない、ということです。
1993年、アメリカで外科的な埋め込み式の人工内耳が開発され、メディアが好意的かつ熱狂的に取り上げたことがありました。しかしそれに対して全米ろう者協会は異議を申し立てます。人工内耳の手術を受けた子どもは、訓練によっていくらか言葉を弁別できるようになるかもしれないが、自由に音声を聞き分けられるようになるわけではなく、その一方で、ろう者社会で必要な手話や、ろう者社会での価値観の習得の妨げとなる可能性が高くなる、ひいては言語能力の成長や、精神保険にも影響を悪い影響を与えてしまう危険性が高い、というのです。
これは、どこに問題があったのでしょうか? そこには、耳が聴こえる者の側に「音が聴こえない世界は良くないことだ」という思い込みがあり、より耳が聴こえる側へ寄せよう、それが良いことだ、という発想があったのです。そうではなく、ろう者は「手話という独自の言語を持ち、ろう者固有の文化や価値観、歴史、ライフスタイルがあるマイノリティ(少数派)」なのです。それを多数派が、無意識に少数派の生まれ持った特性を否定的に、軽視していたのです。