リー・スクラッチ・ペリーが85歳で死去 レゲエ/ダブ界の「生きる伝説」逝く

リー・スクラッチ・ペリー(Photo by Redferns)

レゲエ・シンガー/音楽プロデューサーとして、60年代から活動を続けてきた伝説的なアーティスト、リー・スクラッチ・ペリーが85歳で亡くなった。The Jamaican Observerによると、ペリーは現地時間29日にジャマイカ西部のノエル・ホームズ病院で息を引き取った。死因は不明とのこと。

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ジャマイカのアンドリュー・ホルネス首相は同日、「伝説のレコード・プロデューサーで歌手のレインフォード・ヒュー・ペリーOD(愛称:リー・スクラッチ・ペリー)のご家族、友人、そしてファンの皆様に深い哀悼の意を表します」とツイートしました。リー・スクラッチは、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ、コンゴズ、エイドリアン・シャーウッド、ビースティ・ボーイズなど、さまざまなアーティストと仕事をし、プロデュースしてきました。リー・スクラッチ・ペリーは、音楽界に多大な貢献をしたことで、いつまでも記憶されることでしょう。彼の魂が安らかでありますように」

ジャマイカ首相の追悼ツイート

ペリーは、70年にわたるキャリアの中で、音楽界で最も多作なアーティストの一人でした。2000年代初頭までのペリーの全レコーディング作品を掲載した書籍『Kiss Me Neck』は、300ページを超えています。

キース・リチャーズは2010年にローリングストーン誌に、「リー・ペリーは音楽界のサルバドール・ダリだ。彼は神秘的だ。世界が彼の楽器なんだ。ただ耳を傾けるだけでいい。プロデューサーというよりも、アーティストの魂を刺激する方法を知っている。フィル・スペクターのように、彼にはどこからともなく聞こえてくる音を聞き分けるだけでなく、その音をミュージシャンに伝える才能がある。スクラッチはシャーマンだ」と語っている。

ペリーの音楽活動は、50年代後半、コクソン・ドッドのサウンド・システム「サー・コクソン・ザ・ダウンビート」のレコード販売に雇われたことから始まった。60年代初頭、ドッドは有名なスタジオ・ワンを開設し、ペリーは4フィート11インチの身長から当時「リトル」と呼ばれていたが、ここで初めてレコーディング・スタジオでの経験を積み、数十曲を制作した。

その後、音楽プロデューサー、ジョー・ギブスが立ち上げたアマルガメイテッド・レーベルに移籍し、自身のレコーディング・キャリアを積むだけでなく、プロデュースも続けていた。怒りっぽいペリーとギブスとの間で意見の相違が生じた結果、ペリーは1968年に自分のレーベル「アップセッター・レコード」を設立した。

ジャマイカとイギリスでの人気のおかげで、ペリーは1973年にキングストン郊外の自宅の裏庭に 「ブラック・アーク」と名づけられたスタジオを建設。同スタジオで、ベテランのバックバンドであるアップセッターズとともに、1973年の『Blackboard Jungle』、アップセッターズの1976年の画期的なアルバム『Super Ape』、そしてペリー自身の『Roast Fish Collie Weed & Corn Bread』などのダブの傑作を生み出した。

1936年にジャマイカの田舎で生まれたペリーは、60年代初頭にキングストンに移り住んだ。「父は道路工事、母は畑仕事をしていました。私たちはとても貧しかった。私は学校に行ったが、何も学ばなかった。私が学んだことはすべて自然から得たものです」とペリーは1984年にNMEに語っている。

「学校を出ると、畑仕事以外には何もすることがありませんでした。大変な重労働だ。私はそれが好きではありませんでした。そこで、私はドミノゲームを始めました。ドミノで頭を鍛え、人の心を読むことを学びました。これは、私にとって永遠に役立つものだったのです」

「ベースは脳で、ドラムは心臓だ」とペリーは2010年にローリングストーン誌に語っている。「私は自分の体に耳を傾けてビートを見つけます。そこから先は、箱舟の中の動物たちの音を試しているだけなんだ」

from Rolling Stone US

Translated by Rolling Stone Japan

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