泉谷しげる、90年代以降から「阿蘇ロック」に至るまでを振り返る

泉谷しげる



なぜ、こんな時代に・・・ / 泉谷しげる

田家:この曲はいろいろ思い出すことがありそうですね。

泉谷:これは救済というほとんどやったことがないことに手をつけたわけですから、非常にみなさんに迷惑をかけるなと思ったんで。

田家:迷惑かけるな(笑)。

泉谷:下手したら政治的利用かもしれないじゃないですか。だから、ビクターにもこの曲は「インディレーベルからださせてくれ」というお願いとかね、全部寄付しちゃうんで事務所も辞めさせてくれとか、全部断ち切って、オレ一人でやらせてほしい、みなさんに迷惑をかけないようにという意志を持ってやったんですよね。こういうのって分からないじゃないですか、慈善活動なんだから。慈善活動って言うけど、偽善ですよ(笑)。1日1偽善ですよ。だけど、それでもなんとか被災した人たちの役に立ちたいという気持ちが勝っていたので、たった一人で座り込むみたいなものですね。

田家:1993年に「北海道南西沖地震奥尻島救済キャンペーン 一人フォークゲリラ お前ら募金しろ」を始めたわけですもんね。

泉谷:募金は集まったし、成功もしたし、賛同者がどんどん増えて。だから、ありがたかったんだけど、これが1番怖いことで自分の味方を作ってしまうことは1つの勢力を持っちゃうことでしょ。うれしかったんだけど、まあ、2、3回やったか(笑)。やって、その手法は一旦終わりにして。その後、考えたのはとにかく地域活性化と目指した「阿蘇ロックフェスティバル」とかああいうものだったんだけど、結局それは、意図して募金とか寄付とか、救済の看板を背負わないんですね。その時は熊本地震の時に、なんで熊本救済という看板を背負わないんだって、随分と言われたんだけど。そこで、フェスの入場料を払ったやつが、また募金もしなきゃいけないってなったらよ、ライブや音楽に集中できねえだろ! と。

田家:阿蘇ロックに至るまでの過程がありまして、1992年に雲仙普賢岳大噴火、1993年に北海道南西沖地震、1995年阪神淡路大震災。日本が立て続けに自然災害を被った時期でして。泉谷さんは奥尻島の地震・津波被害の時にフォークゲリラを東京で始められた。その時、ゴールは見えていたんですか?

泉谷:ゴールというより、これはもしかしたらなんとなくいろいろ災害が起きるかもしれないと思ったんですね。

田家:立て続けにこういうことが?

泉谷:立て続けにかは別にして、その前に雲仙普賢もあったし、良からぬものを感じたんですよ。信じる信じないは別として、ノストラダムスの大予言は1999年に的中するって騒がれているし、そんな空気もあって、ちょっとやばいのかもしれないって自分の中で勝手に思っていたんですね。ただ、人には言わない。もう1つはストリートに戻りたい、路上に帰りたかった。

田家:先週の最後はLOSERでしたからね。

泉谷:あれは大名豪華ですからね。贅沢な行列ですからね。

田家:スターミュージシャンのね。

泉谷:やっぱり息苦しくなってきます。一人になりたくなりますよね。

田家:1993年11月15日に北海道・厚生年金会館で奥尻島のチャリティコンサートがあって、そこにいろいろな人たちが駆けつけてきた。

泉谷:そうなんですよ。別に誘ったわけじゃないんですよ。

田家:小田和正さん、忌野清志郎さん、桑田佳祐さん、白井貴子さん、他にもいらっしゃいましたけどね。

泉谷:そう。別に説得したわけじゃなくて「泉谷、よくやったな」ということでみんな感心してくれて。

田家:東京のフォークゲリラから始まって、北海道まで行ったわけですもんね。

泉谷:そうですね。だからうれしかったですよ。でも、これはこれでまた繰り返していくとどうなのかなという不安感はそのうち生まれるんですけどね。

田家:これが次に繋がっちゃったわけですもんね。どんなふうに繋がったかはこの曲の後にまたお聞きいただこうと思うのですが、1995年5月に出た17枚目のアルバム『メッセージ・ソングス』の中の「黒い波」。

Rolling Stone Japan 編集部

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