泉谷しげる、90年代以降から「阿蘇ロック」に至るまでを振り返る

泉谷しげる





田家:1995年のアルバム『追憶のエイトビート』の中の「It’s gonna be ALRIGHT」。この曲も自身の印税を寄付されたんですよね?

泉谷:うん、そうだね。これは自分の気持ちの中ではみんなが当然のように言っていた言葉で、被害に遭った人たちの大変な災害を忘れないようにやり続けていこうって言ったんだけど、俺は「それは違うだろう」ってよく言っていて。「忘れさせてやれよ」とさ。やっぱり、いつまでも考えてるのってつらい。だから、俺たちの音楽はそういうためのものだから、いかに逃避させてあげるかですよ。

田家:大丈夫なんだからって言ってあげる。

泉谷:大丈夫なんだからって、そういうことにしていかないと。むしろ忘れちゃいけないのは、そういう被害に遭わなかった外側の人間だよ。お前らこそ忘れるんじゃねえよってことよ。

田家:このアルバム『メッセージ・ソングス』は1995年1月17日の阪神淡路大震災の後に出たアルバムなわけで、阪神淡路大震災の後、震災のその日から泉谷さんはフォークゲリラを新宿で始められました。

泉谷:うん。何の用意もなく。

田家:それはどういう状況で始められたんですか?

泉谷:さすがにびっくりして、夜マネージャーに電話したら、「何をやるんですか?」ってノッてないんで、「お前なんかどうでもいいや」ってなって。一人で新宿のアルタ前に行きましたね。

田家:さっきの話の続きになるのですが、1994年3月に長崎の普賢岳チャリティコンサートの後に、さっきあげたようなものすごい人たちがスーパーバンドとして集まったわけで、それが1994年8月に武道館で、1996年9月15日ワールド記念ホールに行って、「阪神淡路大震災復興支援コンサート 日本をすくえ ’96 IN神戸」に繋がっていったわけですね。

泉谷:スーパーバンドは吉田拓郎のアイデアです。

田家:拓郎さんのネーミングだったんだ。

泉谷:彼と電話で話してて、「どういう形が1番いいかね」って。「ボーカリストがみんなで楽器を持ってやるんだ」って言い始めて、「それはおもしろいな」と思ったんだけど、小田さんが「いや、ドラムとベースだけはちゃんとしたやつを押さえよう」とかさ(笑)。あの人は音楽的な人だから、そこで言い合いになっちゃって、なんか大変だったんですけどね(笑)。

田家:長崎では浜田さんと大友さんのツインドラムでしたもんね(笑)。

泉谷:結果的には拓郎のアイデアの方がおもしろかったですね。頑としてあいつも譲らないんで、絶対全員で覚えるんだと。1週間練習して、いや、もっとかなあ……。 たった7曲のためにみんな頑張りましたね。

田家:あれだけのことをやってしまうと、冒頭でおっしゃった燃え尽きた、やり尽くしたっていう感じになるでしょうね。

泉谷:なります、なります。それはもう金メダル獲ったようなものですよ。

田家:誰もやったことないことをやったわけですもんね。

泉谷:それをまた味をしめて、やろうっていうのも気持ち悪いことだし、やってくれとは随分言われて、何人かは一緒にやろうと思った人もいたんだけどそれは甘えすぎだなと。

Rolling Stone Japan 編集部

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