LOUDNESSの高崎晃が語る、80年代メタル全盛期と世界進出

LOUDNESSのギタリスト、高崎晃(Photo by Yulia Shur)

40周年イヤーのLOUDNESS。2021年の最後を飾るEX THEATER ROPPONGIでの二夜連続ライブ<Ampan Night><Dragon Night>も発表され、コロナ禍を経ていよいよ彼らが本格的に動き出す!というわけで、ここでは以前Rolling Stone Japanに掲載した高崎晃(Gt)のインタビューをお届けする。

※この記事は2020年12月25日発売「Rolling Stone Japan vol.13」に掲載されたものです。

【画像】1985年5月、全米ツアー中のシカゴでのLOUDNESS

16歳でLAZYのギタリストとしてプロデビュー。1981年結成のLOUDNESSでは、日本でヘヴィメタルという音楽を牽引しただけでなく、アメリカのメジャー・レーベルのアトランティックと契約して、海外進出も果たし、アルバム『THUNDER IN THE EAST』を全米74位、『LIGHTNING STRIKES』を全米64位にチャートインさせ、モトリー・クルーとともに全米ツアーを回り、日本人として初めてマディソン・スクエア・ガーデンのステージに立ち、AC/DCとツアーしたり、自らのツアーのオープニングにポイズン、シンデレラを起用したりするなど、全米、ヨーロッパを股にかけてのワールドワイドな活動をしてきた。2010年代以降も海外からのラブコールが絶えず、再び海外でのツアー、フェス出演を活発化してきたLOUDNESS。ヘヴィメタルの黎明期も、80年代の全世界的なメタル全盛時代も、今の海外のシーンもすべて見てきた高崎晃に、ヘヴィメタルについて語っていただいた。





ー高崎さんのロックの入り口は何でしたか?

高崎 小学校6年の時に聴いたレッド・ツェッペリンの2ndアルバム、ディープ・パープルの『MACHINE HEAD』。あと、クリームがちょうど解散した後で、ライブ・アルバムを出したんです。そのぐらいがロックの入り口かな。俺には姉と兄が5つ、7つ上でいて。小学校高学年の時からそういう音楽が普通に家の中で流れてる環境で育ったから、ちょっと早かったんですよ。当時は来日ラッシュで、レッド・ツェッペリンも2回来たし、ディープ・パープル、グランド・ファンク・レイルロード、シカゴとか、いろんな外タレが来てて。うちの兄弟はほとんどのライブに行ってたので、家にはコンサートのパンフレットもあったんです。

ー日本の音楽も聴いていました?

高崎 最初は吉田拓郎さんが好きで。それからチューリップとかに行って。中学生の時はバンドでキャロルとか好きで演奏してましたよ。

ーギターのある音楽が好きだったんですね。

高崎 まずエリック・クラプトンを好きになって、そこからディープ・パープルのリッチー・ブラックモアになって、ジミー・ペイジですね。一番スタンダードな流れですよ(笑)。

ーヘヴィメタルを意識したのはどこからですか?

高崎 ヘヴィメタルというと、81年ぐらいからの、いわゆるアイアン・メイデン、デフ・レパード、サクソンとか、そういうイギリスから出てきた俺らと同世代のアーティストたちで、いわゆるメタルの中でもニューウェイブな感じになりますよね。

ーNWOBHM(ニュー・ウェイブ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル)ですね。

高崎 伊藤政則さんがよう言うてましたよね。LAZYの最後の頃、80年12月に出した『宇宙船地球号』で、LAZYも「ヘヴィメタル宣言」という風にやって、自分たちで曲も作り出して、歌詞の世界はまだアイドルから脱却できてない感じはあったと思うんだけど、サウンドはだいぶハードで、自分らの理想としてたものにだいぶ近づくことができたんです。けど、ヘヴィメタルやるぞと言ってから3カ月ぐらいで、LAZYは解散しちゃったんですよね。ただ、解散して数カ月後にはもうLOUDNESSを立ち上げてて。ちょうど世界的にも、イギリスからもアメリカからも、俺らと同世代のアーティストがたくさん育ってきてたんですよね。たぶん俺らと同じで、ツェッペリンやディープ・パープルを聴いてきた連中らが、20歳ぐらいになって出てきてたんやと思うんですよ。それが後にアメリカではLAメタルになっていったりするんです。だから、ヘヴィメタルっていうワードで展開していったのは、80年代になってからじゃないのかな。

ーLAZYがヘヴィメタル宣言をして、『宇宙船地球号』をリリースした時、ファンにとっては衝撃的だったんじゃないですか?

高崎 TVに出演してアイドルの曲をやりながらも、生演奏はずっとやってたんですよ。たまに3~4曲やれたりすると、その時はまあまあハードな曲をやったり、マイケル・シェンカーをやったりもしてました。そしたら、自分たちの知らない間に男性ファンも少しは獲得してきてたみたいで。ただ、女の子がキャア言うて、紙テープとかも放ったりして応援してる中で、男は観に行きにくいよね(笑)。一度、試しに男だけのライヴゆうのをやってみたんですよ。そしたらすぐに売り切れちゃって。そういうのもあって、LOUDNESSに行く自信が多少はついてたっちゅうのはあるよね。LOUDNESSになったら、いきなりファン層が女性ばかりだったのが、グッと男性の方が急に増えましたからね。浅草国際劇場で最初にやってんけど、それまでキャア言われてる中でしか俺らやってなかったのが、いきなりウォーーッに変わったんで(笑)。その一番最初の「ウォーーッ」をいまだにずっと覚えてる感じですね。

ーLOUDNESSがデビューをした81年になると、海外からもヘヴィメタル・バンドがいろいろ出てくるわけですが、高崎さんは日本独自でどういう風にヘヴィメタルを打ち出していったんですか?

高崎 当時はまだ曲作りをするにも慣れてないし、そういうテクニックも持ってなかったのでね。本当、試行錯誤の繰り返しでしたよ。ただ、『宇宙船地球号』を1枚作ったことによって、まあやれば何とかなるだろうみたいなのは若干あったかな(笑)。当時はリハーサル・スタジオもレコーディング・スタジオも死ぬほど入りましたね。そんなに言うほどはライブしてなかったんですよ。でも、当時のディスコグラフィを見ても、毎年必ず1枚か2枚出してるんです。ソロアルバムも出してたし、本城未沙子とか浜田麻里といった女の子のプロデュースも始めてましたからね。

ーLOUDNESSが出てきた後に、大阪から次々とメタル・バンドが出てきましたよね。そういう同世代のジャパニーズ・メタル・バンドはどんな感じだったんですか?

高崎 俺らが東京に行って1~2年後ぐらいになると、次々と出てきましたね。44MAGNUMは、当時のドラムに俺の親友がおったので、44MAGNUMがどういう状況かもようわかってたし、EARTHSHAKERは元々うちのヴォーカルの二井原実もおったバンドなんです。LOUDNESSがデビューした頃、彼らも東京に徐々に来てたので、たまにライブに顔を出したりしてましたよ。同じ関西人やし。ただ、彼らがメジャーになる頃には、そんなに他のバンドとの付き合いはなかったんですよね。みんなが東京に出てきたその2~3年後には、俺らはイギリスに行ったり、アメリカでライブやったりして、84年にはアトランティックと契約をしてるんで。

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