ASKAが語る「PRIDE」への想い、チャゲアスの代表曲をセルフカバーした理由

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「この曲のリリースには理解も誤解もあるだろう。でも、それを語るのは今じゃない」。32年の時を経てセルフカバーされた、CHAGE and ASKAの代表曲「PRIDE」リリースに際するASKAの言葉である。

【動画】ASKA「PRIDE」ミュージックビデオ

ファンの中で大切に生き続けてきた曲が新たに生まれ変わることに、さまざまな想いが交錯したことだろう。それでもリリースに踏み切ったその経緯と、この曲がそこまで愛されてきた理由とは何なのだろうか。今回、「PRIDE」という曲の背景を順に紐解いていくことで、その魅力に迫っていく。

―ASKAさんのソロ、CHAGE and ASKAをサポートしていたドラマーの菅沼孝三さんが永眠なされました。可能でしたら、今のお気持ちと菅沼さんとの思い出を教えてください。

「孝三、オマエのことは忘れない。またな」。これに尽きます。世界中に弟子がいる偉大なドラマーでした。肉体は老化します。でも、魂が消えることはありません。孝三が、「ASKAさんにだけはお伝えしておかないと」と余命1カ月のことを聞かされました。僕はご存知のように、ここ2年医療界の方々とたくさんの出会いがありました。「認可されてる、されてない」は、余命1カ月を前に選択など意味はなしません。いつものようにメンバーに「今、俺たちができること」を一斉メール。次々と届く仲間愛。当然、孝三は参加できない身体でした。ところが、そんな自分のために仲間が集まった理由を知らない孝三がステージに上がった。その後ですね。孝三が「すべての事には理由がある」を知ったのは。余命宣告を過ぎてから半年間、よく生きてくれました。生きてくれたことに感謝。最後は痛みもなかったようで、一緒にステージに上がってる「うわ言」があったと聞きました。「孝三、ありがとな」。これだけです。

-では、シングル「PRIDE」のお話を。CHAGE and ASKAの『PRIDE』というアルバムがリリースされたのが1989年ですよね。この年は、CHAGE and ASKAの10周年でもありました。

そう、79年にデビューでしたから。そして、89年の『PRIDE』を作り終えて、そのままロンドンに行きました。

-あとは89年というと、昭和が終わって平成に移り変わった時期でした。バンドとしても世の中としても時代が大きく変わるタイミングで「PRIDE」という名曲が生まれたことにどこか運命的な力を感じますが、今回、再アレンジ・セルフカバーでリリースされたということで、あらためて「PRIDE」の背景を紐解いていきたいと思います。まず、この曲を書くに至った経緯というのは?

この曲に関しては、当時ではめずらしくデモ音源の時点でほとんどアレンジしていないんです。柔らかいコードフレームをラララで歌って、それを澤近(泰輔)に渡して。イメージはデヴィッド・フォスターがプロデュースしたシカゴ。まさにそれですね。で、歌詞を書き始めるときに考えたのは、(この曲が)何を孕んでいるんだろうということでした。けっこうガチガチの固い歌になりがちですけど、やっぱり日頃の生活の描写から入っていくべきなんじゃないかなって思って。サビは、なんとなく“タダじゃ済ませられない”という感じがしていたので、そこで思い切り“プライド”というテーマに絞り込んでいった感じでした。



―歌詞も曲とほぼ同時に出来上がっていたんですか?

AメロとBメロは歌詞が出来るのが早かったので、リハーサルの時から歌詞付きで歌っていました。サビだけはラララ~の状態でしたけど。たしか、ツアー中にレコーディングしたんです。あの頃はケツカッチンが必ずあったので(リリース日が決まっていた)、どうしてもツアーの最中に進めなければならなくて、京都でのライブが終わった翌日の午前中に僕だけ東京に戻って歌入れをやったんです。確かそのときChageは喉を痛めてたんじゃないかな。あれは苦肉の策でした。とにかくやれるところまで形にしておく。そしてDメロの“僕は歩く~”ってところだけにChageのハーモニーを乗せようという事になりました。突然別世界にする。「時間は最大のアイテム」。そうなりましたね。それでなんとかリリースに間に合いました。

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