坂本龍一が語る、『BEAUTY』で描いたアウターナショナルという夢のあとさき

エスニシティから逃れるために

─それでも、やはり『BEAUTY』で試みた「アウターナショナルな音楽」という試みは、相当に果敢で冒険心に富んだものでした。アメリカの原風景といっていいようなフォスターの曲に沖縄の歌詞をあてて、オキナワチャンズに歌わせるとか(「Romance」)、沖縄の民謡をセネガルのユッスー・ンドゥールとともに歌うとか(「Diabaram」)、あるいはサミュエル・バーバーの「Adagio」を二胡で演奏するといった試みは、いま考えても実験性の高いものだと思います。その一方で下手をすると「文化的盗用」だと、批判されかねないものだったようにも思いますし、実際、当時ポール・サイモンやデイヴィッド・バーンが「ワールドミュージック」に接近した際には、そうした批判に強く晒されました。その辺、坂本さんはどんなふうに考えて『BEAUTY』をつくられたのでしょう。

坂本:僕自身、本来はそうした文化搾取を批判する側だと思っていますので、ただ面白いからってエスニックなものを使うことについては常に警戒感はありますし、そういったものが批判されるのは当然だという気持ちも、もちろんあります。ですから『BEAUTY』は、エスニックな何かをネタのようなものとしては使っていないという自負はありますし、単なる「耳遊び」としてエスニックなものを使うのではなく、もうちょっと入り組んだ組み替えが行われています。

フォスターの楽曲を沖縄民謡として歌うというアイデアは一番分かりやすいかもしれませんが、面白かったのは、あのフォスターの曲を持ってきてオキナワチャンズに聴かせたら「これ沖縄の曲じゃないの?」って彼女らが物凄く喜んだんです。「何これ? 沖縄の曲?」「いやいや、アメリカのフォスターって人が作った曲」「いやそんなはずない。絶対沖縄の曲だ」というやりとりの末に「じゃあもう、うちなーの言葉で作詞するから」ということになったんです。これは僕にとってはアウターナショナルな行為なんです。

もうひとつ言えば、サミュエル・バーバーの「Adagio」は、二胡とアート・リンゼイのギターと僕のピアノによるものですが、まるで中国の古典の曲みたいな感じがしてきたり、そこにアートのノイズっぽいギターがジャキーンと入ることで突然現代性が出てきたりします。これもやっぱり、僕としてはアウターナショナルなものなんです。

─はい。

坂本:「インターナショナル」っていうのは、それぞれの「ナショナリティ」があって、そのナショナリティにおいて手を繋ぎましょうということで、これは「ナショナリティありき」の感覚ですよね。『BEAUTY』でやりたかったのは、そうではなく、個々人が自分の「ナショナリティから出る」ことだったんです。「どこでもないところに、みんなで出ちゃおうよ」という。それが自分の考えるアウターナショナルで、それを音楽的にどう実現しうるのかという実験が、フォスターを題材にした「Romance」であったり、バーバーの「Adagio」や「ちんさぐの花」「安里屋ユンタ」なんです。





『BEAUTY』ツアーの様子、1990年3月24日にロンドンで撮影(Photo by Ian Dickson/Redferns)

─実際のレコーディングにおいては、どうやってそうした認識をミュージシャンに伝えていったんですか?

坂本:「ちんさぐの花」のレコーディングは、たしかニュージャージーのスタジオで行いまして、こっちにアフリカのファラフィナというパーカッショングループがいて、こっちに沖縄チャンズの3人がいて、その真ん中にインディアンのタブラ奏者のパンディット・デニッシュがいるみたいな現場でした。彼らには「アフリカと沖縄はかつて古代では夫婦だったんだけど海によって分けられてしまったので、それをもう一回音楽を通してつなぐんだ」みたいなでっちあげのお話を伝えてからレコーディングをしました。

─Pitchforkに、坂本さんのこれまでのコラボレーションを紹介する記事がありまして、坂本さんのコラボレ-ターというか、メジウムというか、媒介者としての活動にフォーカスをあてながら、実際「坂本さんは、そうやって人をつないでいくグローバリストなんだ」といったふうに書いてあったと思うのですが、坂本さんご自身の認識としてはどうなんでしょうか。いまの沖縄とアフリカの物語のように、ストーリーを紡いでいくことで人を出会わせるといったことが得意なんでしょうか。

坂本:得意ではないです。人付き合いも悪いですし、言葉で表現して人を動かすみたいなことは本当に不得手です。でも早くに亡くなってしまった如月小春さんと、かつてNHKのラジオドラマを一緒にやったりしたことがありまして、如月さんが書かれたその脚本のなかに「坂本龍一はメディアだ」っていう一節がありまして、そうなのかなと思ったりもしたことはあります。

要は、人をつなげるのが上手いかどうかを別として、そもそも、アフリカのパーカッショニストと沖縄の人が一緒にやるってアイデアを出す人はあまりいないということなのかもしれません。少なくとも当時は、そんなことは多分誰も考えていなかったはずですし、僕としても、それが面白いからやったというよりは、やっぱり「エスニシティに安住していちゃだめだ」っていうところから出てきた発想なんです。「そこから出なきゃだめだぞ」というところから、自然と沖縄とアフリカを一緒にやろうとなっただけなんです。

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