西岡恭蔵とKURO、世界旅行をしながら生み出した楽曲をたどる



田家:これを選ばれているのは?

中部:これは、恭蔵さんってビートルズ好きだったんだなという感じがすごくするんですよね(笑)。自分のライブで、ベストで選んだので、恭蔵さんの意欲作だったと思いますよ。ライブ(録音)は、やっぱり怖いんじゃないですかね。やり直しがきかないし、それに挑戦したという感じがものすごくある意欲作だと思います。

田家:これだけのメンバー、ドラム・林敏明さん、ベース・山本正明さん、キーボード・難波正司さん、ピアノ・国府輝幸さん、ギター・洪栄龍さん。当時の第一人者ばかりですもんね。

中部:あと、お願いしたからやってくれるっていう感じの人でもなくて、恭蔵さんに説得力があったということですね。この音楽に参加しないかということなんじゃないですかね、こういうレジェンドが集まってくるということは。

田家:しかも関東と関西と両方集まっていますしね。

中部:そこはやっぱり、こういう音楽をやりたいという恭蔵さんの主張がはっきりしていたし、それが受け入れられていたんだと思います。

田家:そういう意味では関西フォークの流れにもいないわけですし、はっぴいえんどから始まっている東京のシティミュージックの流れだけでもないところに彼はいるんですよね。

中部:そうなんです。それだから、知っている人だけが知っている個性的な存在になって、恭蔵さんのファンの集まる温かい洞穴の中に入っていた感じの音楽になっちゃうんだと思うのですけどね。

田家:このバンドもマスターが恭蔵さんだった。

中部:おそらくそうだと思います。このメンバーを引き連れて、小さいライブハウスでもやっているんですよ。(お店側は)到底ギャランティができないから、バンマス(である恭蔵さん)が払っていたということでしょうね。

田家:なるほどね。で、冒頭でも話が出ましたけれども、恭蔵さん夫婦の経済的な裏付けになっていたことの1つが矢沢さんの曲の作詞で、1976年の矢沢さんのアルバム『A DAY』と1977年の『ドアを開けろ』に詞を提供しています。この中には矢沢さんの代表曲が入っていますからね。『A DAY』には「トラベリン・バス」、『ドアを開けろ』の中には「黒く塗りつぶせ」と「バーボン人生」「あの娘と暮らせない」。

中部:(2人には)ヒット曲を作詞してしまう力があった。しかも、プロとしてなんですよね。自分のやりたい音楽とかというわけではなくて、この人のイメージでこういう歌ということに見事に応えるわけです。これはプロの仕事ですよね。

田家:矢沢さんと恭蔵さんの接点もここにあったんだなと。

中部:そうなんです。これも最初は不思議だったんです。関西の人たちに訊くと、西岡恭蔵さんが矢沢永吉さんの詞を書いているというのは、同姓同名の違う人なんじゃないかという説すらあったんです。同じ人だと思えなかったらしいですね。

田家:でもまあ、これまでの『南米旅行』の話とか、恭蔵さんとKUROさんの旅の仕方をたどっていると、「トラベリン・バス」とか「バーボン人生」というのは、お2人の歌でもあるわけでしょうし。

中部:それはもう、間違いなく材料があるわけですよね。それは矢沢さんと同じセンスというか、同じ気持ちだったんじゃないですか。

田家:この本を読むと、それまで何で矢沢に書いてるんだと思われた方も、なるほどなって納得されるでしょうね。

中部:アーティスト(作詞家・作曲家)として同じ事務所に所属していたとか、僕自身もそれを聞いたときに驚きました。そういう関係だったんだと。

田家:で、生き方が似ているところもあった。

中部:でしょうね。尊敬し合う存在だったみたいですね。だから、西岡さんは矢沢さんのことを非常に尊敬している。

田家:次の曲は、先週話に出た1979年のアルバム『Yoh-Sollo』から中部さんが選ばれております、「最後の手紙」。

Rolling Stone Japan 編集部

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