ティアーズ・フォー・フィアーズの歩み 80s黄金期と復活劇、カニエも魅了した「疎外感」

ティアーズ・フォー・フィアーズ(Photo by Frank Ockenfels)

 
ローランド・オーザバルとカート・スミスによるティアーズ・フォー・フィアーズ(Tears For Fears、以下TFF)が、18年ぶりとなるニューアルバム『ザ・ティッピング・ポイント』をリリースした。

ベテランバンドのリリースに長いインターバルがおかれること自体は、決して珍しくはない。ミュージシャンはキャリアを積み重ねるほど、発表のハードルが上がっていくものだし、ファンも想い出のナンバーを聴ければ満足な状態になっていくからだ。しかしTFFに関して言えば前者はともかく、後者については当てはまらない。彼らはこの18年の間に大量の新規ファンを獲得しているからだ。なぜベテランバンドがそんなことを可能にしたのかは後々書くとして、まずはTFFの歴史を振り返ってみよう。


運命のふたり、TFF結成までの軌跡

物語の発端は、13歳のローランドが、両親の離婚に伴って移り住んだイングランド西部の地方都市バースで、同じく離婚家庭に育ったカート・スミスと出会った70年代半ばまで遡る。ふたりは音楽を一緒に作るようになり、高校時代にネオモッズなスカバンド、グラデュエイトをスタート。このバンドが作曲家トニー・ハッチの目に留まると、キンクスやドノヴァンが所属していたことで知られる名門パイ・レコードから1980年にメジャーデビューを果たしたのだ。このときふたりは弱冠19歳。




9曲をローランド、1曲をカートが作曲したグラデュエイトのアルバム『Acting My Age』を聴くと、音楽性こそTFFとは異なるものの、10代が作ったとはとても思えない楽曲の完成度に驚く。「英国のバカラック」の異名をとったハッチも、ふたりの作曲能力に惹かれたのだろう。演奏能力も相当なものだ。後にふたりが生楽器のセッション・ミュージシャンを縦横無尽に使いこなせたのも、彼ら自身が優秀なミュージシャンだからだろう。

そんなグラデュエイトだが、本国でのセールスはさっぱりだった反面、シングル「Elvis Should Play Ska」が、スペインでトップ10入りするヒットになったことで、ヨーロッパ諸国で過酷なプロモーション・ツアーを行うようになってしまう。もともとインナー派だったローランドとカートは疲弊し、グラデュエイトはすぐに空中分解してしまったのだった。

次の活動を模索するローランドとカートは、地元バースのネオンというバンドにセッション参加する。この経験がふたりに天啓をもたらした。ネオンの中心人物ピート・バーンとロブ・フィッシャー(ふたりはこの直後、ネオンをネイキッド・アイズと改名し、ヒットを連発する)は、バンド演奏にこだわらず、シンセサイザーとプログラミングによって楽曲の魅力そのものをアピールする手法を取っていたからだ。


ネオン時代の楽曲「Communication Without Sound」(ネイキッド・アイズのコンピレーション『Everything & More』収録)

こうしたアイデアは、ネオン〜ネイキッド・アイズに限らず、80年代前半の英国ロック界の流行でもあった。OMDやソフト・セル、ユーリズミックス、ヤズーなど、シーンには続々ユニークなバンドが登場しつつあった。もともとソングライター志向だったローランドとカートもこの流行に乗った。ふたりは、少年時代に抱えていた孤独や疎外感を、打ち込みサウンドに乗って歌うバンド、TFFをスタートさせたのだ。

 
 
 
 

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