ラウ・アレハンドロ、レゲトンの未来を拓くゲームチェンジャーの飢餓感

 
クオリティ管理と息抜き

ラウは年末までにあと2回ほどライブを行い、その後、トラップとR&Bの上に組み立てたプロジェクトと彼が呼ぶ、アンダーグラウンド時代からのファンであれば馴染み深い『Trap Cake』の続編を仕上げるためにスタジオ入りすることになっていた(編注:このときラウは4月末のリリースを計画していたが、『Trap Cake Vol. 2』は2月25日に発表された)。その後、年内にリリースを予定している別のアルバムのレコーディングに入る。3月には再びツアーが始まる。最大のチャレンジはクオリティ・コントロールだとラウはいう。「ビデオの制作をやって、撮影もやって、音楽制作もやって、ショーもこなさないといけない。どこかできっと破綻します。ほとんど不可能なことをやってるわけですから。でも、やらないといけない」と、疲れを滲ませながら語る。何人かが部屋に入ってきて、ファッションショーへと向かう時間が刻一刻と迫っていることを伝える。

ラウは、息抜きの方法をいくつか挙げている。「できる限り彼女と一緒にいようとしています」と、スペイン人歌手のロザリアについて触れる。「可能なら週末にどこかへ飛んで休みます」。ファンは1年以上もふたりの写真や頻繁なSNSでのやり取りから関係を怪しんできたが、ようやく9月にInstagramで交際を明らかにした。他にも、ペイントボールをしたり、友人とバイクやジェットスキーに乗ったり、多様なアクティビティを時間が許すかぎり楽しんでいる。しかし本当のところ、彼の中には前進し続けようという衝動が強く染み付いている。「楽しもうとは思っているんですが、仕事中毒なんです。数日休んでいると『おれは何をやってるんだ?』と落ち着かなくなるんです」と言いながら、せわしなく周囲を見回すジェスチャーをしてみせる。「働かなきゃって」。

着替えのためにみんなが部屋の外に出され、しばらくすると、全身にルイ・ヴィトンをまとったラウが姿を見せる。2021年のメンズコレクションからのルックだ。小さなLVのロゴが散りばめられたブラウンのタートルネックセーターに、フレアのブラウンパンツ、そして腰にはプロレスのチャンピオンベルトのような巨大なベルト。ほどなくボートに乗り込むと、直接会ったことのないリッキー・マーティンと一緒に会場に向かうことになったのを知る。

ふたりはイベントについて語り合い、ラウは写真を撮るやいなやInstagramのストーリーにポストする。「リッキーはチルしてる。ラウは後ろで日光浴」とスペイン語でナレーションも入れる。マーティンはピースサインをしながら「まったく最悪の時間だね」とジョークを飛ばす。船はスピードを上げ、二世代のラテンポップの代表を乗せてマイアミの泡立つ海を静かに滑っていく。


2021年12月、Vibra Urbana Miami 2021でのライブ写真(Photo by John Parra/Getty Images)


クリスティアーノ・ロナウド

リッキー・マーティンのようなポップアイコンとこんなふうに出会うことは、かつて幼いラウル・アレハンドロ・オカシオ・ルイスが夢見たことだった。子どもの頃から学校のタレントショーで歌い踊ってきた彼は、かつてのパフォーマンスについて解説しながら、2000年代前半にスペイン語圏のラジオで流行った明るくロマンチックな歌を口ずさんでくれた。「スペイン人のダビッド・ビスバルの曲をやったんですけど、どんなふうだったっけか。“Ave María, ¿cuándo serás mía?”。あと、ルイス・フォンシだ。“No te cambio por ninguna”」。音符のひとつひとつを震わせながら歌う。彼のデビューは小学3年生のとき、小さなスーツに小さなギターを抱え、伝統的なプエルトリコのボレロに合わせて口パクしたときだった。その頃から音楽と人前で歌うことに惹かれはしたが、常に頭にあったのはプロとしてサッカーをすることだった。

7歳くらいのとき、ラウは学校の外でサッカーボールを蹴りながら母親の迎えを待っていた。母が到着するとまもなく、リッチー・ロマノという元サッカー選手が、自分の経営する小さなスポーツ・ショップに立ち寄らないかと声をかけてきた。その場で、ラウはロマノがコーチをしているキッズ・チームに入ることを決め、ラウのお母さんは、初めてのスパイクを買ってくれた。その夜、彼はその靴を履いて眠りについた。幼いラウはサッカーが大好きになり、年齢を重ねるに従って、より真剣に取り組むようになった。彼のヒーローは、クリスティアーノ・ロナウドだった。「みんなに愛されているところが好きでした。『彼になりたい』と思ったんです。家族を大切にしているところも好きでした」と回想する。「YouTubeに彼のエピソードをまとめた動画が上がっていて、そこでの彼は母親や家族に家を買えるだけのお金を持っていました。彼のようになりたいと思いました」。

ラウの家族は、プエルトリコの北東部、カノバナスにあるパルマ・ソラという町で、2ベッドルームの小さなアパートに住んでいた。山が多く、木々が生い茂り、近くに小川があるような田舎だった。電気はよく止まり、水は冷たかったが、彼はその静けさを懐かしむ。祖父のアレハンドロが、ギターを持ってポーチに座り、口笛を吹きながらメロディを作っていたのを覚えている。ラウは、その音が潜在意識の奥深くに残っていると考えている。ずっと姉と同じ部屋で育ったが、あるとき、家族が石膏ボードで仕切りを作った。ふたりして朝日と共に起き、サンフアンの東にある最寄りの都市、カロリーナの学校まで通った。同級生にはラッパーのアヌエルAAがいた。「いつも少しだけ都会にいたけれど、家に帰ると周りは農園だった」とラウは言う。


『Afrodisíaco』収録、アヌエルAAをフィーチャーした「Reloj」


疲れ、絶望

ラウが12歳くらいのときに両親が離婚した。母親は彼と妹を連れてカロリーナに引っ越した。彼女は再婚せず、小さなアパートを借りて行政の仕事につき、昼夜厭わず働くことで生計を立てた。このときラウは母親の面倒を見るためにサッカーを突き詰めようと考えはじめた。プエルトリコ大学カロリーナ校に通い、2013年にはセミプロのプレミアデベロップメントリーグ(現USLリーグ2)にドラフトされることを目指してフロリダでトレーニングを開始した。3つの仕事を掛け持ちしながら、何時間も練習する気の抜けない日々が続いた。やがて、夢が叶わないことが明らかになっていった。いくつかのケガが積み重なって諦めたと、過去には語ってきたが、いま思えばサッカー人生を終わらせた主な原因は心理的なものだったという。実現しないことに心血を注ぎ込むことに途方もなく疲れ、絶望してしまったのだ。

「一生懸命やっているのに上手くいかないと、イライラするんです。それに経済的な問題、家族との個人的な問題、いろいろありました」。「私の家族はお金を持っていなかったので、家に帰れば、みんなが『お金がない、お金がない』と喧嘩をしていました。一方でサッカーにはいくら時間を注いでも、光が見えませんでした」。数人のスカウトマンの手引きでヨーロッパに飛んで試合にも出たがうまくいかず、このスポーツが自分に向いていないことをさらに確信した。「『サッカー選手になりたいのはわかるが、お前はなれないぞ』と言われた気がしました」。

ラウは、落胆して島に戻った。前と変わらぬ小売の世界でALDO、Guess、TJマックスなどの仕事を掛け持ちしたほか、結婚式場のウェイターもやった。フロリダにいた頃に趣味で作曲を始めたが、ルームメイトから曲を発表するように勧められてむしろ驚いた。自宅で手作りのざらついたトラップビートに乗せて思いつくままに歌をつくるようになった。ラウはラッパーというよりはシンガーで、その歌声に乗ることで音楽はより一層スムーズなものとなった。

その頃、曲を公開するためにFacebookページを開設したところ、小学校の同級生で後にコラボレーターとなるミスター・ナイスガイの目に留まった。「彼の音楽はまったく違うことを提案していました」とナイスガイは言う。「プエルトリコでみんながレゲトンばかりやっていた頃、ラウはアメリカのノリのR&Bを作っていたんです」。

Translation by Akira Arisato & Kei Wakabayashi

 
 
 
 

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