ホレス・アンディ レゲエ界の伝説が振り返る50年の歩み、マッシヴ・アタックとの邂逅

ホレス・アンディ(Photo by Micheal Moodie)

 
マッシヴ・アタックとの活動などでも知られる、ルーツ・レゲエ・シンガー、ホレス・アンディ。70年代初頭から、約50年にわたって歌い続ける彼がこのたびエイドリアン・シャーウッドのON-U SOUNDから新作『Midnight Rocker』をリリースした。

彼のキャリアは70年代初頭のジャマイカはキングストンでスタートする。現在のレゲエまで続く、ジャマイカ音楽の基礎を作ったプロデューサー、故コクソン・ドッド率いる名門レーベル、スタジオ・ワンからのリリースでまずは高い評価を受け、その後はプロデューサーのバニー・リーなどともに、70年代中頃のルーツ・レゲエの黄金期に数々の作品を残していく。70年代後半以降、活動拠点をNYやロンドンへと移しつつも、ここでもジャマイカ系アーティストを中心とした現地のレゲエ・プロデューサーと作品を多く残している。特にNY時代のワッキーズとの作品など、80年代においてもその長いキャリアを彩る傑作は存在する。 

現在に連なるひとつの転機は間違いなくブリストルの巨星、マッシヴ・アタックのコラボだろう。1991年の『Blue Lines』の参加以降、彼らとの活動は多くの人もよく知る通りではないだろうか。

UKの多くのレゲエ・プロデューサーとも作品は残しているが、意外なことにON-Uとのタッグは初。ここでも発声一発で彼の声とわかる伸びやかなハイトーン・ボイスは健在で、リディム・トラックはもちろんON-Uらしくタイトにしてヘビー。どちらかと言えばON-Uのなかではシンプルなスタイルで、ホレスの歌を聴かすことに徹している感覚がある。恐らくルーツ・レゲエ歌手としてのホレス・アンディを、いま考えられうる、最も良い状態でパッキングした作品ではないだろうか。



─UKのレゲエ・プロデューサーとの作品は多いですが、エイドリアン・シャーウッドとのタッグは初ですよね?

ホレス:彼と仕事をするのは初めてだ。実は一緒にアルバムを作りたいと10年以上言われてはいたんだけど。だけど2021年に再会したときにやっとピンと来たんだ。

─レコーディングはエイドリアンのスタジオで?

ホレス:イギリスの田舎、海の近くにあるエイドリアンのスタジオでレコーディングしたよ。とにかく寒かった(笑)。‘It was cold, it was cold ♪’(歌い出す)。でもいい時間をすごせたよ、美味しいご飯を食べて、近くのパブに行ってビール飲んで、またスタジオに戻ってレコーディングして、また翌日レコーディングするという感じでね。いいバイブスだったよ。

─新作は数曲のセルフカバー曲で構成されています。レゲエ・ファンとしては、やはり初期のあなたの代表曲でもある「Mr Bassie」に耳がいきます。「Mr Bassie」は、当時スタジオワンのレコーディグ・セッションのリーダーとも言えるリロイ・シブルス(※)の、そのベースプレイヤーとしての側面を称えた曲と言われていますが、彼のベースラインはどの点で優れていたと言えますか?

※60年代後半より、ジャマイカで活躍する3人組のボーカル・グループ、ザ・ヘプトーンズのリード・ボーカリスト。60年代末から70年代にかけて、スタジオ・ワンのセッションにおいては、重要なベーシストでありアレンジャーとしても活躍。彼が作り出したベースラインの多くは、レゲエにおいて“ファンデーション・リディム”と呼ばれる定番リズム・トラックの原型となり、現在にいたるまで幾度も引用されている。

ホレス:素晴らしいのひとことだね。リロイは最高のベースラインを一発で弾くことができた。授かった才能だと思ってる。僕が一番好きなベースプレイヤーだから、リロイのことを歌った曲を作ったんだ。




─あなたの初期のキャリアを語る上で重要な作品はさきの「Mr Bassie」など、70年代初頭のスタジオ・ワンからのリリースではないかと思いますが、例えば当時、プロデューサーのコクソンに言われて印象的だったことはありますか?

ホレス:コクソンから直接アドバイスというものはなかったかな。それよりもキャリアを振り返れば、スタジオ・ワンでの作業そのものから色々と学んだんだ。とにかくコクソンはいい人だった。惜しまれる人だよ。今も冥福を祈ってる。

─当時のスタジオ・ワンにはさきほどのリロイ・シブルスなど、ジャマイカ音楽の基礎を作った、多くのミュージシャンたちがバッキング・バンドとして働いていました。もちろんシンガーも多くいたと思います。彼らミュージシャンのなかで最も印象的なひとはだれでしたか?

ホレス:当時すでにスタジオ・ワンにジャッキ-・ミットーはいなかったけど、へプトーンズがいて、アルトン・エリスがいて、フレディー・マクレガー、アル・キャンベルなんかがいたんだ。当時の僕はまだそのなかではまだ若いほうだったかな。その後、僕はスタジオ・ワンを出たというわけではないけど、バニー・リーや他のいろいろなプロデューサーとも仕事を始めるようになっていく時期でもあったんだ。当時のスタジオ・ワンは、僕と入れかわるようにシュガー・マイノットが来るようになったんだ。だからシュガーの素晴らしい名曲がレコーディングされたころには、時期的に僕はもうスタジオ・ワンにはいなかったという感じかな。みんなそれぞれすごい才能を持ったアーティストだったと思うよ。でも、やっぱりそうしたアーティストのなかにあってもデニス・ブラウンが僕はナンバーワンだと思う。

Translated by Ayako Iyah Knight

 
 
 
 

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