「旅路の果て」「DANCE HALL」に凝縮された死生観
一わかりました。あと演出についてあと二つ聞いておきたい曲があって。まず「旅路の果て」。これはどういうアイデアから?
TOSHI-LOW:どういうアイデアも何も、歌詞のまんまだけどね。
一そのまま、ストレートに見せたかった?
TOSHI-LOW:うん。歌詞のまんまでよかった。ああいう写真がもう頭の中にあって書いた歌詞だから。これは逆にベタでいいかって。単純に写真がめくられていく、あれ以上でも以下でもなかった。
一TOSHI-LOWくんが思い描く死が変わってきたと感じましたね。今すぐ消えてもいい俺、という話ではなくなってるでしょ?
TOSHI-LOW:……そうだね。若い時は自分の死のほうが大事で、自己がとにかく大事だった。でも自分も社会の中の生き物のひとつだし、繋がりの中で生きてる一人だし。いつの間にか、相手の死のほうがデカくなってる。死を認識するっていうのは、自分の明日がなくなることではなくて、目の前とか横で死んでいく人たちを見て……残された感覚とか、もっとこうすればよかったっていう後悔も含めてのことだと思うようになった。いずれ自分が死ぬ時はそれすらなくなっていくんだけど。でも今は、自分が残されて生きてることによって死を認識しなきゃいけない、そういうタームに入ってるね。
一わかります。残されてしまったし、それでも生きなきゃいけないっていう感覚も生まれてくる。
TOSHI-LOW:それはとっても辛いことだよね。順番に親から死ぬならいいけど、その逆とかさ。たとえば自分の子供の死とか、想像しがたいくらい苦しいじゃん。でも俺、友達の実家に行ったら、年老いたお母さんとお父さんがすごく明るく俺を迎えてくれるわけ。それってどういうことなのか……。昔だったら友達が死んだっていう衝撃がすべてだったけど、今度は残されてるお母さんお父さんのことが気になるし。順番の違う死ってこんなに苦しいのかって思う。でもそもそも死に順番なんかない、とも思うし。
一だから「旅路の果て」の映像は、生きている誰かとのツーショットであることに強い意味を感じました。
TOSHI-LOW:うん。「旅路~」は全部そうした。みんなとお前、じゃなくて、俺とお前。それ以外の繋がりってないんだよ、ほんとは。全体で友達だったグループの中の一人が死んだってそこまで気になんないし。ためしに卒業式の写真とか調べたら絶対何人か死んでるから。だけどそれで泣いたりしないでしょ? 結局は一対一の付き合いの中でしか死は実感できないから。
一沁みましたね。そこから繋がる新曲「DANCE HALL」の〈やり残したことを伝えて〉っていう歌詞もグッと心に入ってくる。
TOSHI-LOW:やり残したことに気づいていく旅なんじゃないかな。人生後半戦に入ってて、やり残したことを一個一個考えて、納得していくしかない。達成はできないと思うんだよ、自分が思う人生なんて。だけど納得することはできる。それは「旅路~」の映像で出てきた人たちに送ってる気持ちでもあるかな。勝手に「こいつ、もっとこうしたかっただろうな」「あいつだったらこう言うだろうな」って想像することが、今の自分の道標になることはよくあって。そこも引き連れたうえで、じゃあやるしかないじゃん。「あいつ、もっとバンドやりたかっただろうな」って思うと、あいつは俺じゃないけど、じゃあ俺がやればいいだけじゃんって思う。