中川五郎が語る、フォーク・ソングとの出会いからコロナ禍までを描いた自叙伝



田家:本の中でもお書きになっていますけども、1967年10月にビート・シーガーが大阪に来て、そのコンサートをご覧になってこの曲を聴いて自分で歌うようになった。

中川:ちょっと大げさな言い方になってしまうかもしれないんですけども、自分の人生を決める一瞬みたいなものが僕の中にあるとすればピート・シーガーのコンサートを観に行って、実際に生で戦争の愚かさを伝えるこの歌を聴いて、「これはすごい」と思った。そこで僕の人生が決まったみたいなものなんです。

田家:そのときこの歌はライブで聴く前もご存知だったんですか?

中川:はい、僕はその頃からアメリカのフォークにすごく興味があって。当時アメリカのフォーク・ソングの雑誌とか輸入販売で買っていたんですよね。当時ピート・シーガーの「腰まで泥まみれ」がすごく話題になっていて、楽譜とか歌詞とか既に手に入れていたんです。で、コンサートで実際に聴いてすぐに日本語の訳詞を作って歌い始めました。

田家:そのときにご存知だったのは重要ですよね。さっきの話にもありましたけども、そのときにはもうあちこちで歌う活動はされていたんですね。

中川:はい。1967年の3月、ちょうど高校2年生から3年生になる春休みに出かけに行った場所で、高石ともやさんが歌いに来たんですよね。その時に話しかけて、それからいろいろなところに高石さんに連れられて歌いに行くようになりました。

田家:北浜の愛日小学校講堂。

中川:ベトナム反戦集会で、僕は集会に参加して講演を聴きに行ったんですけども、その最初に高石ともやさんが歌いに来ていた。高石さんが来るなんて知らなかったんですけれども、でも高石さんが既にピート・シーガーなどの歌を日本語で歌っているのはラジオから流れているのを聴いていました。そこで「僕もアメリカのフォーク・ソングが大好きで、ピート・シーガーのレコードを聴いたりしているんです」って言ったらすごく興味持ってくださって、「それだったら次に歌う場にギター持って歌いに来たらいいよ」って言ってくださって。高石さんにあちこち連れて行ってもらって、鍛えられた感じですね。

田家:高石ともやさんが歌って大ヒットした「受験生ブルース」はもともと中川五郎さんが「受験生のブルース」というタイトルで書かれたんですよね。

中川:1967年の高校3年生の夏休みに京都でフォーク・キャンプが開かれました。そこに東京からボロ・ディランと呼ばれていた真崎義博さんが来ていて、廃れていく炭鉱町のことを歌ったボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」という歌を〈おいでみなさん聞いとくれ〉って日本語で歌ったんです。その曲がそのフォークキャンプでのヒット曲みたいになって、僕はその替え歌をすぐ作ったんです。「炭鉱町のブルース」の替え歌で「受験生のブルース」を作って、メロディはめちゃくちゃマイナーな暗いブルースなんですよね。それで歌っていて、でも1967年の終わりに「帰って来たヨッパライ」がヒットして、関西のフォークはコミカルでおもしろい歌がいっぱいあるぞみたいな感じで、それに続く歌はないかと探し始める人たちもでてきた。そこで「受験生のブルース」をもう少しコミカルにしようということで、高石ともやさんがこの曲を軽快な曲に付け替えて、すごく話題になって。そのおかげで僕も1968年になってからは「受験生ブルース」の詞を書いた者だってことで、あちこち歌いに行けるようになりました。

田家:中川五郎さんのURCからの最初のフルアルバム『終り・はじまる』の中からもう1曲お聴きいただきます、「俺はヤマトンチュ」。

Rolling Stone Japan 編集部

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