中川五郎が語る、フォーク・ソングとの出会いからコロナ禍までを描いた自叙伝



田家:高石ともやさんと一緒にあちこち歌われるようになって、沖縄にも行かれたという。

中川:1968年に沖縄をテーマにしたコンサートをやることになって、沖縄の歌を作れってことで高石ともやさんと沖縄に行って10日間ぐらい滞在したんですよ。1960年代の終わりに、僕は戦争反対を訴えるプロテスト・ソングを中心に歌っていて、まだ本土復帰する前の沖縄が抱えている問題、本土の人たちの差別意識や沖縄でひどい目に遭っている人たちのことも歌にできたらと考えていました。でも沖縄の歌を歌うにしても、自分の視点で作って歌うしかなくて、それで生まれたのが「俺はヤマトンチュ」という歌です。その後プロテスト・ソングから遠ざかったことも一時ありましたが、50年経って、また自分は同じことをしているなというか、改めてそうした歌のあり方を真剣に考えています。昔より、もうちょっとしっかりした気持ちでやっていられたらいいんですが(笑)。時代が巡り巡っている感じもして、しかもどんどん悪くなっているようで、何とかしなければならない。

田家:1969年にアルバムが出たときに『終り・はじまる』というタイトルがすごくしっくりきたんですよね。

中川:僕の中で1969年後半は1つの時代の終わりだったと思うんですよね。それはもちろん僕らがやっていたフォーク・ソングもそうだし、反戦運動もそうだったし、学生運動も過激な方向に行ったりして。でも、それで世の中が変わるか、自分たちが状況を変えられるかと言うとそうではなくてひとつの終わりの兆しが見えていた。

田家:もう1つの「終末」みたいなニュアンスもありましたしね。これは本の中にお書きになってましたけど、1970年のところで「歌が作れない、もう歌えない」という見出しがありました。そういう状態になったんですね。

中川:今言ったように60年代後半はメッセージソング、プロテスト・ソング、戦争反対、平和を願う歌を中心に歌っていたんです。それは自分のやりたいことだったし、そういう姿勢で社会派みたいに言われることもありました。でも個人的なこと、自分はどうなのか、自分は何をしているのかを歌うことは前には出さなかった。とにかく世の中の不正を告発したり、差別への問題提起を歌っていましたが、そこに自分がないというか、自分を歌っていないことに気づいて。偉そうなことを言っているお前はなんなんだ? という気持ちにどんどんなってきた。それで1970年に歌えなくなって、ちょうど1969年の終わりに「10月21日の夜に」という長い歌を作りました。

田家:国際反戦デーのことですよね。

中川:1969年の国際反戦デーで自分がデモにも参加できなくて、恋人と抱き合っていたという歌詞の歌なんですけども。そのあたりが僕の中で1つの終わりを見つけ、次の始まりの手がかりを掴もうとしていた時期でしたね。そして1970年に入るとちょっと歌えないなという状態になったんですよね。

田家:世の中は万博で一変しちゃいましたしね。その後、1976年に7年振りのアルバムが発売されるわけですが、そのアルバムのタイトル曲をお聴きいただきます、「25年目のおっぱい」。

Rolling Stone Japan 編集部

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE