moonriders特集、鈴木慶一の自薦22曲と共にデビューから現在まで46年の歴史を語る



田家:ブルージーな曲だなという感じですが、やっぱりこの曲から始められますか?

鈴木:アルバム『火の玉ボーイ』自体が、私のmoonridersの歴史の中で唯一リーダーシップをとったアルバムだと思うんです。

田家:鈴木慶一とムーンライダースというバンド名ですからね。

鈴木:当初はソロアルバムの予定で作っていたので、演奏はティン・パン・アレイ+徳武弘文+ペダル・スティールの駒沢裕城になっていますけどね。曲も全部自分で選び、そしてスタジオに行き、常に自分が動いていくんです。だから、唯一リーダーだったなと思えた。本当に不思議な話なんですけど、レコードが出来上がってアルバムのジャケットを見た瞬間「とムーンライダース」がなんでついているんだろうなと。

田家:あ、逆に鈴木慶一のアルバムではなくて。

鈴木:そうそう。鈴木慶一のアルバムで作っていたので。そのときに抗議をしたわけでもないんですね。moonridersに凄く助けてもらったし、まあいいかなっていう、いい加減な判断で始まってしまった。moonridersのスタートは曖昧になりますけど、ここを起点として考えていますね。言い方を換えれば、moonridersのアルバムにゲストが多数参加したアルバムであると。

田家:曖昧ということで言うと、moonridersには前の歴史がありまして、はちみつぱいが1971年に結成して、1974年に解散しているわけですが、その間にオリジナルムーンライダースというのがあった。

鈴木:ここもややこしくなってくるんです。そのムーンライダースというグループ名を私がつけたので、はっぴいえんど解散コンサート、1973年9月21日が4人のメンバーが次に何をするか、提示しなくてはいけなかった。そこで松本隆さんはソウルフルなバンドをやろうということでmoonridersという名前を私がつけましたが、メンバーを集めて、そこに鈴木博文はベースで参加していたり。私の高校の友人の山本浩美というのが参加していたりするわけです。矢野誠さんもキーボードでいます。ライブを何度かやって、何度も観に行きましたけど、数回でみんな仕事が忙しくなって。それが矢野誠さんと松本隆さんです。

田家:松本さんは作詞が忙しくなった。

鈴木:そうです。この2人が忙しくなっちゃって、名前だけがそのまま放り出されていた。1975年にはちみつぱい解散後にアグネス・チャンのバックをやるんです。そのときに火の玉ボーイズという名前を提示した。そしたら渡辺プロダクションが「これはボーイズのお笑いっぽい」と。「コメディアンのバンドじゃないんだから、明日までに考えろ」って言われて、そう言えばmoonridersっていうのが余っていたなと。当時のメンバー全員に私が電話して許諾を得て、moonridersにしたんです。

Rolling Stone Japan 編集部

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