moonriders特集、鈴木慶一の自薦22曲と共にデビューから現在まで46年の歴史を語る



田家:今日の2曲目1972年2月発売、アルバム『moonriders』から「シナ海」。

田家:この曲は?

鈴木:これを歌っているのは鈴木博文ですね。

田家:詞曲も博文さん。

鈴木:鈴木博文さんが18歳のときに作った「大寒町」という曲がありまして、それがあがた森魚さんの2枚目『噫無情(レ・ミゼラブル)』でカバーされて。カバーというか、自分たちのは出てないからカバーとは言わないね、曲提供になってしまいますが。1975年にアグネス・チャンのバックもしながら、moonridersとしてライブもやってました。主に荻窪ロフトですね。そこでやっているときに、みんな曲を書いていたんです。かしぶちくんも曲を書いていたし、鈴木博文も「月の酒場」とか書いていたりするわけで。それが『火の玉ボーイ』には反映されていないんです。『火の玉ボーイ』に1番反映されているのはキーボードの岡田さんの曲で、他は私です。それが終わって、じゃあ次に行こうというときに、このアルバムは先着順だったんです。曲ができた人から録音していくと。かしぶちくんも例えばはちみつぱいで作った「釣り糸」以外の「紡ぎ歌」って曲を書いたり。当然ライブでは散々やってましたけどね。鈴木博文も録音物としては18歳で作った曲以来の「シナ海」を書き下ろしました。すごく無国籍感が漂っています。ストリングスアレンジは矢野誠さん。さっきかけた「火の玉ボーイ」のホーンアレンジも矢野誠さんです。

田家:その無国籍感ということで言うと、はっぴいえんどの細野さんのソロアルバム『泰安洋行』が出たのも1975年でちょうど同じ頃でしょう?

鈴木:あと、あがた森魚『日本少年』も1976年のたぶん『火の玉ボーイ』と同じ日に出ているという感じですね。

田家:細野さんプロデュースでmoonridersの演奏。

鈴木:かなり演奏していますね。

田家:あの『日本少年』はmoonridersがなかったらできなかったでしょうね。

鈴木:そうでしょうね。そして、細野さんのプロデュースの隙間をついて、私がプロデュースしたりして。あと、矢野誠さんもプロデュースしたり。

田家:さっき話に出た、オリジナルのムーンライダースがはっぴいえんどの文京公会堂の解散コンサートでステージに出て。そのときにはっぴいえんど自体の演奏に慶一さんがピアノで参加している。

鈴木:そうですね。

田家:客席で観てましたけども。

鈴木:あのとき、「この4人でしかできない演奏をします」って大滝さんが言ったんです。やはり、4人の結束が固い。私はゲストとしてキーボードで参加しているんだなと、ステージ上で自覚しましたね。はっぴいえんどの場合、日比谷野音の1970年9月のコンサート。そのときにコーラスとギターでサポートするんです。そのときは19歳ですから、はっぴいえんどに入るのかなと、漠然と思うわけです。その後連絡がなくて(笑)。これは入れないんだな、じゃあ自分のバンドを作ろうというような動きになっていく。入っていたら大変なことになってました(笑)。

田家:大変なことになってましたね(笑)。そういう意味では70年代の特にこの頃はmoonridersとはっぴいえんどはどこかで見え隠れしながら、ずっと動いている感じがありました。

鈴木:はっぴいえんどが解散した後の方々ね。

田家:『火の玉ボーイ』っていうタイトルは細野さんのことだという説がどこかにありましたよ。

鈴木:「あいつは」とか言ってますけど、細野さんなんです。細野さんはそのお返しなのかもしれないけども、「東京Shyness Boy」というのを作ってくれる。それは私のことらしいです。

田家:おー! 「火の玉ボーイ」と「東京Shyness Boy」。この話は貴重な話だなー! 慶一さんが選んだ3曲目です。1977年10月発売、アルバム『イスタンブール・マンボ』から「ハバロフスクを訪ねて」。

Rolling Stone Japan 編集部

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