麻薬密売にすべてを捧げた「無名の男」、娘が記した波瀾万丈の生涯 米【長文ルポ】

コカインの台頭、ジャマイカでの不運

父は、1978年にキャリア史上最大の契約を取り付けた。父の話によると、ジャマイカ政府とコネクションのある仲介人が「ガンジャ」と呼ばれるジャマイカ産大麻の独占輸出業者として父を雇ったのだ。時の首相のマイケル・マンリーと彼が率いる人民国家党は、長年ラスタファリ運動(訳注:ジャマイカを中心に発生した宗教的社会運動で、アフリカ回帰や黒人史上主義などを掲げる)を推進していた。70年代半ばに米国政府から圧力をかけられるまでは、マンリー自身も大麻栽培に目をつぶってきた。その後もマンリーは、ラスタファリ運動の指導者と密接な関係を保ち続けきた。指導者の多くは大麻栽培者だが、海上でいつも同じ栽培者ばかりが米国沿岸警備隊に捕まるという事態が続いていた。父は、沿岸警備隊の裏をかくのにうってつけだった。10年前のメキシコと同様に、父のようなポロシャツ姿の白人は、従来の怪しげな船乗りとは一線を画していたのだ。まもなくして父は、ジャマイカの最重要輸出品を密輸するようになった。


写真中央がダン・マクギネス(Courtesy of the author)

「ジャマイカは一筋縄では行かない場所だった」とダッチは話す。「俺はかかわりたくなかった。でも、ダンはひと儲けできると踏んだ」

ある人によると、最初は父の予想どおり、財をなすことができた。だが、マーリー家をはじめとする地元のファミリーと敵対するようになってしまった。彼らは、白人の密輸業者が彼らの王国の鍵を手渡されたことに腹を立てていたのだ。私の親族のひとりは、ボブ・マーリーのライブ後にボブ本人が大麻産業を乗っ取ったことを理由に父を鼻であしらったときのことを覚えている。実際、ボブは間違っていなかった。父は、DC-10(訳注:マクダネル・ダグラス社が60~80年代に開発・生産した三発ジェット旅客機)や母船、ヨット、ビジネスジェットを使って、ジャマイカから米国東海岸へと大麻を次々と運んでいたのだ。問題は、ジャマイカ人たちが人選を誤ったことだった。1974年のダン・マクギネスは、この仕事を見事にこなしたはずだ。だが、78年の父は「コカインもろくに扱えない」ほどになっていたのだ。

その2年後、商業用の船舶(当時2歳の私の名前をとって、「クリステン・ジェーン号」と名付けられた)が進路外のルートを航行していることを理由にニュージャージー港で差し押さえられた。DC-10がジャマイカで墜落し、8万ポンド(約3万6000キロ)以上の大麻が押収された(親族のあいだでは、ジャマイカ史上最大の麻薬の押収と言われている)。それに加えて、大小さまざまな不運が続いた。父が所有する飛行機や船の数は減り、それに合わせて密輸量も減った。皮肉にも、ひと儲けできるとわかっていながら、父はコカインの密輸には手を出さなかった。コカインを米国に持ち込んだ責任を取りたくなかったのだ。80年代に入ると、父は必死に仕事を探すようになった。そんなとき、テオ・プロスという新参の密輸業者が姿を現した。初めて聞く名前だったが、父は気にしなかった。同業者のなかにはプロスの保証人になる者もいた。父の借金も膨れ上がった。ジャマイカでのビジネスは終わったも同然だった。コロンビアでは、麻薬カルテルが取引を支配していた。父が築き上げたビジネスは、父を切り離そうとしていた。プロスとの取引が完了した頃には、父は拘留されていた。今度は、あの父が騙されたのだ。

プロスの正体は、テッド・ウィード(まさかの本名)というDEAの潜入捜査官だった。ウィードは、グルーパー作戦の首謀者でもあった。

「捕まった頃のお父さんには、もうたいしたものは残っていなかった」と母は話す。

Translated by Shoko Natori

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