麻薬密売にすべてを捧げた「無名の男」、娘が記した波瀾万丈の生涯 米【長文ルポ】

ルールは「積み荷の量をできるだけ大きくすること」

あの日、父は面会室の出口まで私を送ってくれた。私は面会室の敷居をまたぎ、自由な世界に足を踏み入れた。すると父は、私に向かって「じゃあな」と別れの挨拶をした。その瞬間、私は揺るぎない事実に気づいた。世間の父親が自分の子供を愛するように、父は密輸という仕事を愛していたのだ。追われること、権力、飼い慣らされた家庭生活の拒否——父にとって密輸は、情熱以上の意味を持っていた。それは、反逆への誓いだった。どれだけ刑期が長くても、実娘が懇願しても、その気持ちに抗うことはできないのだ。

幼い頃から私は、サンフランシスコ中心部のゴールデン・ゲート・パークがキャリアの出発点だったと父から聞かされていた。東海岸の寄宿学校と軍学校で数年間を過ごした父は、同郷の友人ふたりを引き連れて60年代に西部を目指した。多くの若者が薬物の多幸感と自由を求めてサンフランシスコに群がるなか、父は袋分けした大麻を売りはじめた。が、父はすぐにもっと大きなビジネスの存在に気づいた。66年には活動の拠点を地元に移し、のちにDEAから「コネチカット・コネクション」の異名で呼ばれるようになった。回想録によると、父は西海岸から持ち出した50ポンド(約23キロ)の大麻をバイカーギャング「ヘルズエンジェルス」のブリッジポート支部のメンバーに売ろうとした。取引は失敗し、銃撃戦に発展した。父は捕まり、殺人未遂罪と暴行罪、さらには現場から逃走した罪で同州の刑務所に収監された。

「30秒のあいだに、自由になるための選択肢はひとつだと気づいた」と、父はかつて語っていた。

その数年後、父はリチャード・ガルシアと出会う。ガルシアは、父が刑務所時代に協力したFBI捜査官で、のちにロサンゼルス支局の支局補佐になった人物だ。クイーンズで逮捕されたあと、フロリダ州タラハシーの連邦刑務所に入っていた父は、ガルシアをカリスマ的なドラッグディーラーとして知られるジョージ・ユングに引き合わせた。父、ユング、ガルシア、ガルシアの元パートナーであるFBI捜査官のボブ・レヴィンソン(2010年代にイラン政府に拘束され、同地で死亡したことで知られる)の4人はおとり捜査を実行し、コロンビアの麻薬王パブロ・エスコバルの“運び屋”をしていたパイロットのカルロス・レデルを逮捕した。この出来事は、ブルース・ポーターの著書『BLOW——ブロウ』(2001年)とジョニー・デップ主演の同名の映画にもなっている。ガルシア曰く、父は脱獄の名人として有名だった。

「いまでも覚えていますが、ダン(・マクギネス)は出所すると私に電話をかけてきました」とガルシアは振り返る。「ダンは、CIA工作員のオルドリッチ・エイムズ(訳注:CIA工作員でありながら、KGBの協力者として機密情報をソ連側に流した人物)が脱獄を図ったことを聞きつけていました。脱獄を計画していたエイムズの仲間がダンに接触したんです。ダンは脱獄の名手でしたから」

父は、コネチカット州の小さな刑務所で人生初の脱獄に成功した。もうひとりの受刑者と協力して監房の柵を取り払った父は、バイカーギャングとの取引や袋入り大麻よりも大きな野望を胸に、ふたたびカリフォルニアの地を踏んだ。同郷の友人でドラッグディーラーのジム・ヒル——ふたりは同居していた——は、大麻を売るだけではカネにならない、本当にカネ儲けがしたいなら、大麻を密輸しなければならないと考えた。回想録のなかで父は、次のように綴っている。「密輸に関する基本的なルールは——逮捕されることは別として——積み荷の量をできるだけ大きくすること。100ポンドでも1万ポンドでも、リスクを冒していることに変わりはない。それなら、1万ポンドをとるべきだ」

時は1967年。「サマー・オブ・ラブ」と謳われた当時、大麻の需要はかつてないほど急増していた。その頃、父と友人たちはカリフォルニア州サウサリートに小さなバンガローを借り、木目調のボディを備えたフォード社の1950年代製のワゴン車を所有していた。国境の南のメキシコを目指す彼らにとって、これは格好のカモフラージュだった。

Translated by Shoko Natori

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