クラプトンとも共演した世界的プログレ奏者、奥本亮が語る「根性の半生」と海外での学び

奥本亮(Photo by Alex Solca)

 
我々日本人は、同じ日本人がどれだけ海外で活躍しているのか、実はほとんど知らない。今回、20年ぶりのソロ・アルバム『ザ・ミス・オブ・ザ・モストロファス~神獣伝説~』をリリースした奥本亮は、日本では一部のプログレ・ファンのあいだでよく知られている存在だが、海外の音楽業界における認知度は想像以上に高い。日本人が海外で活動するときに、もっとも大切なことは“信頼されること”だと奥本は言う。彼がいかにして海外で信頼を獲得することができたのか、彼の根性の半生を振り返ってみよう。



奥本亮(Ryo Okumoto)は1958年5月24日に大阪府東大阪市で生まれた。3歳からクラシック・ピアノを習い、13歳まで続けていた。中学のときは野球部に所属していたが、新聞配達をして貯めたお金でチャキ・ギターを購入するとスポーツは二の次となり、友人や家族の前でコンサートを開くようになった(レパートリーは吉田拓郎や井上陽水、泉谷しげるなど)。あるときチューリップの「心の旅」(1973年のヒット曲)を聴き、“これなら自分にも弾けるかも”とピアノを弾きだしたのが、キーボーディストとなるきっかけになった。その後洋楽にはまり心酔し、ジミー・スミスやディープ・パープルなどを聴いてハモンド・オルガンへの憧れを抱いている。

15歳のとき大阪難波のナイトクラブ“メトロポリタン”にローディー兼パーカッショニストとして勤めはじめ、プロの世界に入っていく(そこでリズムについて学んでいる)。この頃一番聴いていたのはエマーソン・レイク&パーマー やジェネシス、イエス、ピンク・フロイドなどのプログレッシブ・ロックで、その当時はすべてのものが“新しかった”のでむさぼり聴いていたという。その後梅田のライブ・ハウスで知り合ったオックス(OX)のリーダーの福井利男に誘われ上京、都内のディスコのハコバン(生バンド)のメンバーとして毎夜朝まで8ステージを2箇所で掛け持ちするという多忙な日々を送っていた(ハモンド購入代金のローンを返すためだとか)。東京での下積み生活を5年弱続けた1979年、元ザ・カーナビーツの喜多村次郎(Gt)の紹介でクリエイションに加入、レコーディングやツアーに参加している。


『Solid Gold』帯付きジャケット写真(Discogsより引用)



『Makin’ Rock』帯付きジャケット写真(Discogsより引用)

同じ頃、シンセサイザー奏者の喜多郎のツアー・メンバーとなり、ライブ・アルバム『イン・パースン』に参加したことがきっかけで1980年にキャニオン・レコードよりソロ・デビューを果たし、ロンドンとロサンゼルスで2作品を録音するという贅沢なレコーディングが実現している。ロンドンではクマ原田のコーデイネートでリチャード・ベイリー(Dr)が参加した『Solid Gold』を、LAではエアプレイの2人(ジェイ・グレイドン/デイヴィッド・フォスター)にTOTOのスティーヴ・ルカサー(Gt)とジェフ・ポーカロ(Dr)、そしてニール・スチューベンハウス(Ba)など超売れっ子ミュージシャンたちと録音した『Makin’ Rock』を制作、世界のレベルの高さを実感した奥本はアメリカ行きを決意した。

「ハリウッドのスタジオでレコーディングがはじまったとき、最初に聴こえて来たのはジェフがカウントするハイハットの音だった。カウントだけなのにグルーヴ感が日本とは全然違う、それだけで感動ものだった。俺はOB-Xを演奏したんだけど、最初の曲が終わったときみんなが“君は素晴らしいプレイヤーだ!”と言ってくれたのが嬉しかった。『Makin’ Rock』は1日4時間でたった2日間のレコーディング・セッションで作ったアルバムだった。ほとんどの曲はほぼ1テイクで録れてしまう。1テイクだからこそ勢いのある演奏が録音できるということだけど、これには大いに刺激を受けた」(奥本)

 
 
 
 

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