吉田拓郎の前例のない音楽人生、レコード会社社長から“いちアーティスト”に戻った30代

80年代をどう迎えるか。79年に拓郎さんは篠島で史上初めてアイランドコンサートというイベントを行ったんですね。史上初、島を借り切ってのオールナイトコンサートでした。79年12月31日、日本青年館でのコンサートで、古い歌はもう歌わないって宣言をしたんですね。80年代を新しい気持ちで、新しい音楽で迎える。

80年代に入って2枚のアルバムが作られました。5月に出た『Shangri-La』と11月の『アジアの片隅で』。共にメインの作詞は岡本おさみさんなんですね。『Shangri-La』はロサンゼルスで録音されました。初めての海外録音。プロデューサーは、ブッカー・T・ジョーンズ。ブッカー・T&ザ・MG’sの「グリーン・オニオン」というリズムアンドブルース、ソウルミュージックのスタンダードな曲がありました。岡本さんもロスに同行して詞を書いているんですね。

このアルバムのタイトル『Shangri-La』は、ザ・バンドの最後のドキュメンタリー「ラストワルツ」が撮影されたスタジオで収録したからですね。レコーディングにはザ・バンドのメンバーも参加してました。その次に出た『アジアの片隅で』は、ロサンゼルスでやった“反動”というと言葉が正確かどうかわかりませんが、アメリカに行ったんだから、もう一度日本に向き合うみたいな、そういうアルバムに思えたんですね。おしゃれな西海岸から『アジアの片隅で』。その中から「いつも見ていたヒロシマ」、お聴きいただきます。



1980年11月発売のアルバム『アジアの片隅で』から「いつも見ていたヒロシマ」。この曲のタイトルの広島は、漢字の広島ではなくて、カタカナのヒロシマです。この曲と、アルバムのメインのアレンジが、ギターの青山徹さんなんですね。青山さんはソロのギタリストになる前、愛奴(当時)というバンドのギタリストでした。愛奴はドラム浜田省吾さん、ギター町支寛二さん、ベース高橋信彦さん、ギター青山徹さん、キーボード山崎貴生さん。広島フォーク村にグルックスという3人組の高校生バンドがいたんですね。これは町支さんと高橋さんと山崎さんで、そこに浜田省吾さんと青山徹さんが入った。浜田さんは呉のフォーク村だったんで、「僕は広島フォーク村じゃないよ」と言ってましたが。青山徹さんはヤマハの合歓の郷で音楽の勉強をしていて、広島の仲間がバンドを組んだということで東京で加わった。そういうバンドでした。

彼らは74年の拓郎さんのツアーのバックでプロデビュー、愛奴としては75年にデビューしたんですね。「いつも見ていたヒロシマ」を青山徹さんがアレンジする必然性があった。そんな起用でもあるんだと思います。同じ『アジアの片隅で』から、タイトル曲をお聞きいただこうと思います。こちらのアレンジは、松任谷正隆さんです。「アジアの片隅で」、12分超え、フルサイズでお聴きいただきます。



これは1980年の武道館でのライブレコーディングです。ドラムス島村英二さん、ベース武部秀明さん、ギター青山徹さんと拓郎さん、キーボード、そして編曲が松任谷正隆さん。作詞、岡本おさみさん。この後、拓郎さんと岡本さんはしばらく間が空くんですね。これでやりきったという感じがあったのかもしれません。1980年、東京は軽薄短小という、浮かれたような明るさに包まれていた。その中でこの曲が、このアルバムが発売されました。

Rolling Stone Japan 編集部

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