デヴィッド・ボウイの没入型ドキュメンタリー『ムーンエイジ・デイドリーム』が画期的な理由

『ムーンエイジ・デイドリーム』のワンシーン(C)NEON PICTURES

デヴィッド・ボウイ財団唯一の公式認定ドキュメンタリー映画『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』が3月24日(金)から公開される。ブレット・モーゲンが監督を務めた本作は、ロック史上最も華やかでグラマラスなロックスターの世界観を体験する没入型のエクスペリエンスであると同時に、真のパイオニアたるアーティストの知られざる側面を浮かび上がらせる。

『ムーンエイジ・デイドリーム』は、デヴィッド・ボウイについてのストレートなドキュメンタリー作品であってもおかしくなかった。しかし今時、ボウイのストレートな描写など誰も求めてはいない。ブレット・モーゲンが脚本と監督、編集を務めた本作は、シン・ホワイト・デュークの万華鏡のような内面世界へと誘う、極めてイノベイティブなマインドトリップだ。『くたばれ!ハリウッド』におけるハリウッドの大物ロバート・エヴァンスや、『COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック』でのカート・コバーンなど、モーゲンはこれまでも素顔が見えにくいアーティストの複雑な内面に切り込んできた。本作はそれにとどまらない、ロック史上最も華やかでグラマラスなロックスターの世界観を体験するかのような、まさに没入型のエクスペリエンスだ。本作に収録された当時の貴重なインタビュー映像のひとつで、ボウイは音楽面の感受性についてこう語っている。「何もかもはゴミであり、あらゆるゴミは美しい」。その言葉は、本作のアプローチを端的に表現していると言っていい。



それは音楽ドキュメンタリー作品としては画期的な手法だ。ナレーターやその他のいかなるガイド役も登場しない本作は、ボウイの映像やインタビュー、バージョン違いの楽曲の数々等で構成されるモンタージュを、モーゲンがその審美眼でリミックスしたものだ。彼はボウイの遺産管理財団の協力を得て、数十年分におよぶ無数のアーカイブ映像に目を通した。中にはレアなものもあるが、その大半はロックスターの誇大妄想を視覚化した有名なものだ。だが本作の核は、「自分はDJであり、プレイこそが本当の自分だ」というモーゲンのアプローチだ。

『ムーンエイジ・デイドリーム』はボウイの私生活にはほとんど触れていない。本作はあくまで、「僕はコレクターであり、パーソナリティを集めるのが好きらしい」といった発言を残した、世間が知るボウイのバイオグラフィーだからだ。本作では、彼の音楽的変遷を包括的に捉えようとはしていない(ティン・マシーンには一切触れられていない)。それでも、本作のためにトニー・ヴィスコンティが再ミックスした音源をファンの視点で組み合わせたブリコラージュは、ボウイの音楽の知られざる側面を浮かび上がらせている。

自身を無地のカンヴァスに喩え、大衆の欲望と畏怖を映し出す媒介として捉えていたボウイを描く上で、それは適切なアプローチだと言える。「アーティストとしての彼は、あくまで人々の空想が作り上げた架空の存在だ」。モーゲンは劇中でそう語っている。「そういう意味では、我々こそが偽預言者であり神である」。ボウイは大衆の想像力を刺激し、自分自身と他人に対する新たな視点を授けることがロックスターの使命だと信じていた。「私は時に、自分が感情を持った生物であることを証明する行動に出る。だが、それは演技に過ぎないんだ」

1973年に放送されたイギリスのトーク番組出演時の映像では、ホストのラッセル・ハーティはエレガントな服装に身を包んだ目前の実直な生物に親しみを持っているのがわかる。「スポットライトを浴びるようになる前、あなたは何をしていたのですか?」とハーティは訊ねる。「無名の人がそうであるように、ふと『神よ、私はもっと注目されるべき存在ではないのか』と問いかけたりしていたのでしょうか?」。ボウイは少年のように無邪気な笑顔を浮かべ、こう答えている。「神に何かを求めたことはない。すべては自分自身で決めたことだ」

Translated by Masaaki Yoshida

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