cero『e o』クロスレビュー 革新的であり続けるバンドの現在地

cero

 
ceroの通算5枚目となる最新アルバム『e o』が大きな話題を集めている。そこで今回はimdkm、金子厚武という二人の音楽ライターによるクロスレビューを掲載。革新的であり続けるバンドの現在地に迫った。


1. 「演奏」と「物語」からの解放
imdkm

『e o』は、原点回帰であると同時に更新でもある、バンドの歴史においてユニークな立ち位置の作品だ。ソウルクエリアンズ以降のネオソウルを取り入れた『Obscure Ride』、ポリリズムや変拍子を取り入れつつダンサブルなアプローチを強めた『POLY LIFE MULTI SOUL』を通過した上で、静謐さのなかに初期の遊び心あふれるエクレクティックなサウンドの残響も感じさせる。

そもそも制作拠点にメンバー3人が集まって、DAW上で多重録音しながら進めていったというプロセスそのものが、『WORLD RECORD』のころへの回帰を思わせる。しかし、扱う音色のパレットはいっそう研ぎ澄まされて、サウンドを通してつくりあげられるヴィジョンはまったく対照的に(高城晶平が本作を語る言葉を借りるならば)「静けさ」に貫かれている。ただし、その「静けさ」にははりつめたような緊張感やリズムの蠢きもまた満ちていて、たしかに『Obscure Ride』や『POLY LIFE MULTI SOUL』を経たceroでなければ達し得ないようなものになっている。

このアルバムを聴いてもっとも印象的なのが、テクスチャにフォーカスした音作りだ。たとえば前作でとりわけ印象的だった緊密なリズムのコンポジションは後景化し、むしろ流れるようなメロディとゆるやかなテクスチャが編み合わされた空間のなかに、はっとするリズムが時折浮かび上がるようなところがある。ドローンや環境音の積み重ね、あるいはアコースティック楽器にほどこされた音響的操作はきわめて映像的で、言葉とともに一瞬一瞬の情景を脳裏に立ち上がらせる。

本作のリリースにあたってインタビューを行う機会があったが、そこで印象的だったのは、メンバーがバンドによるアンサンブルがもたらす無意識の制限からの解放を語っていたことだった。実際に楽器を演奏するということは、かならずしも能動的なことばかりではなく、楽器と身体がこれまでつちかってきた関係のなかにからめとられることと表裏一体でもある。もちろん、そうした領域に積極的に身を投じることで、ここ数作のceroはきわめて興味深い音楽的な実践を繰り広げてきたことは間違いない。しかし、いったん生演奏という前提を外すことで得られた自由がいかに豊かなものだったかは、本作に耳を傾ければわかることだ。

特にその傾向は前半に顕著で、たとえば「Nemesis」のいささか変則的なドラムパターン。四分音符のシンプルなグリッドを感じさせるキックとクラップにはさみこまれる性急なタムは、ジューク/フットワークの重層的なグルーヴに似た緊張感を楽曲全体に刻み込む。あるいは螺旋を描くように拍子の感覚がゆらぐ「Tableaux」では、グルーヴはメロディとからみあってひとつの持続のなかに昇華されてゆく。また「Hitode no Umi」では、マーチング・バンドのような淡々としたドラムによって支えられていたかに思えた楽曲が、ビットクラッシュを施されたざらついたテクスチャに溶け出してゆく。楽曲の構成に加えて、SE的なサンプルの挿入や浮遊感の強いダブ処理がグルーヴを常に相対化するかのような「Fuha」も印象深い。



本作では飛び抜けてキャッチーで踊れる「Fdf」も、アルバム収録にあたってほどこされたリアレンジでは、シングル版で中心となっていたホーンのリフがギターとキーボードのアルペジオにさりげなく置き換えられ、意図的にフォーカスがぼかされ、にじまされている。アルバム後半の楽曲は前半のそれらに比べて全体の構成もメロディの輪郭もたどりやすい(ピアノをバックにした独唱にちかい「Evening News」など)が、それでもテクスチャの的確な操作とサウンドのはぐらかしが感じられる。

もうひとつ、ceroが本作で解放されたと言ってもよさそうなものに、「物語」がある。ceroはなによりストーリーテリングのバンドであった、と思う。少なくとも高城の書く歌詞はとても魅力的な物語をつむいできたし、楽曲もそれを裏切ることなく豊かな物語を響かせてきた。しかし、『e o』は、あるいはここに収められたひとつひとつの楽曲は、もはや物語を運ぶ乗り物ではなくなっているように見えるし、聴こえる。

一行ごとに鮮烈なイメージが連ねられる「Epigraph」で幕を上げ、そのまま物語を迂回するかのように言葉が重なってゆく。“リンクの切れた言葉たち”(「Tableaux」)とはまさに、このアルバムそのものを語っているかのようだ。この変化を高城は「叙事から叙情へ」といった言葉で表現しているが、ceroというバンドにとってはかなりラディカルな転換点だと言えよう。つまり、物語的なイマジネーションを持って都市を、あるいはときに失われた都市を捉えようとしてきたバンドが、そのまなざしはそのままに、まったくことなる道具を手にしたのだから。

アルバムをしめくくる「Angelus Novus」は、そのタイトルがパウル・クレーの素描を参照していることから、あるいは歌詞の描写からもわかるように、ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の概念について」を下敷きとした内容になっている。それはある意味で、楽曲の構成やサウンドにおいても、あるいは言葉においても「リンク」を断ち、叙事的なものから叙情的なものへと転換した『e o』の全体像をあらわしている。



物語は暗黙のヒエラルキーをつくりだす。言葉もサウンドも、あるひとつの言葉やサウンドを際立たせるためのパーツとなっていく。「どんでん返し」であれ「大団円」であれ、ある決定的な瞬間を頂点とするヒエラルキーが、物語の内外に形成されていく。それがなにかを物語ることである。

「歴史の概念について」は、この多面的な仕事をこのように要約するのは気が引けるが、ある意味では、歴史という領域において、こうした物語的なもののもたらすヒエラルキーに真っ向から対決しようとする論文だ、と言えよう。その限りで、この論文に登場する「歴史の天使」の姿を自らに重ねる最終曲は、「リンクの切れた言葉たち」に満ちた『e o』に対するひそかなコメンタリーであるかもしれない。それはかならずしも隠された物語のクライマックスを告げるものではないが、少なくともこの言葉とサウンドの集積に対する向き合い方を示唆しているように思える。

ずいぶんと遠くに来たようで、実はとても身近な場所に舞い戻ったようでもある。あるいは、見慣れた景色のようでいて、ずいぶんとよそよそしく、新鮮に思える。そんな本作を、ceroはどのように飼い慣らし、未来へ繋げてゆくのか。圧倒されつつも、すでにそんなことが気になってしまう。

Tag:
 
 
 
 

RECOMMENDEDおすすめの記事


 

RELATED関連する記事

 

MOST VIEWED人気の記事

 

Current ISSUE