ドクター・ジョン逝去、音楽を愛しニューオーリンズを世界へ伝えたレジェンドの生涯

1940年11月21日にマルコム・ジョン・レベナックとして誕生したドクター・ジョンは、幼い頃から生まれ故郷の音楽にすっぽりと包み込まれて育った。3歳ですでにピアノを叩くようになり、10代になるとニューオーリンズのアフリカ系アメリカ人のクラブに潜り込むようになり、同じ頃に同市のスタジオで働き始めた。ドクター・ジョンが最初に手にした楽器はピアノではなくギターだ。しかしニューオーリンズのピアノの巨匠プロフェッサー・ロングヘアと出会い、彼からピアノを習うようになった。20歳になる前にドクター・ジョンはバンド活動を始め、ロイド・プライスやジェリー・バーンなどの地元のアーティストに自作曲を提供するようになり、その一方でエース・レコーズのA&Rとして働いていた。



彼の人生と音楽に決定的な出来事が起きたのは1960年。けんかを仲裁しようと分け入った彼の左手の人差し指が銃で打たれてしまう。これを契機に彼は楽器をピアノへと変え、最終的にピアノがドクター・ジョンと言えばピアノと言われるほどのメイン楽器となった。ニューオーリンズの人気が下火になって、デトロイトのモータウンや他の都市の音楽シーンが注目されるようになると、ドクター・ジョンはロサンゼルスに拠点を移した。これが1964年で、ここから彼のセッションマンとしてのキャリアがスタートしたのだった。

そもそもブードゥー教の神官をモデルにして作ったドクター・ジョンというキャラクターを、レベナックは他のアーティストに演じさせようと考えていた。しかしそのアーティストが辞退したため、彼は自分でドクター・ジョンを演じることにした。かつてドクター・ジョンは「この計画が完全にできあがっていたので、腹いせに自分でやってやった。次のレコードを作ることなどないと思い込んでいたからね。フロントマンになる気なんてさらさらなかった。でも突然このキャラクターにハマってしまったのさ。思ったほど悪くないぞってね」と言っていた。そして芸名をドクター・ジョンに変えて、ソロ活動をスタートさせたのだが、このとき彼は自作の音楽にニューオーリンズ、ブルース、サイケデリックの要素をブレンドした。そして新たなキャラクターの法服と頭飾りを着けたスタイルで演奏するようになった。

その後、伝説のプロデューサーであるジェリー・ウェクスラーを通じてアトランティックとレコード契約したドクター・ジョンは、遂に自分の声とグルーヴを見出し、ランドマーク的なアルバム『ガンボ/Gumbo』を1972年にリリースした。この作品には「アイコ・アイコ/Iko Iko」、「レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール/Let the Good Times Roll」など、彼の解釈によるニューオーリンズのクラシック曲がフィーチャーされた。翌1973年、彼は商業的な成功のピークを迎える。このとき、最大のヒット曲である「ライト・プレイス・ロング・タイム/Right Place Wrong Time」がトップ10にチャートインした。これらのアルバムを通して、独特のゆったりしたダミ声と優れたリズム感だけでなく、ブギとスイングするシンコペーションを取り入れたピアノの演奏力も広く知れ渡ることとなった。

Translated by Miki Nakayama

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