フリート・フォクシーズのロビンが語る「死」からの学び、コロナ禍に再発見した音楽の力

 
「Shore=岸辺」と「死」というモチーフ

―ニュー・アルバムの突然のリリースに驚いています。しかもANTI-からのリリース、それも予想に違わぬ素晴らしい内容で。

ロビン:ありがとう!

―実は私は前作『Crack-Up』の時にフォナーで、そして2018年1月の来日公演の際、大阪でライヴ前に取材をしていまして。

ロビン:うん覚えているよ。

―その時、『Crack-Up』のジャケットであしらわれた写真のフォトグラファー、濱谷浩の話から神道の話もしました。あの来日公演の後、少し日本に残り、アートワークにもなった大台ケ原に足を伸ばしたそうですね。

ロビン:そうなんだ。三重で2週間滞在してたんだけど、1月だったせいもあってか、辺り一帯静寂に包まれててね……美しかったよ。その時地図を見てたら、いくつかの神社や寺を回る散策コースを見つけてね、次回はそのあたりに絶対行くって決めていたんだ。実際、このアルバムが完成したら実は日本に行こうと思っていた。残念ながら(コロナもあって)実現してないんだけど……。とにかくあの時はとても美しい体験だったよ。実はハマヤの写真は今回のアルバムのジャケットとポストカードでも再び使っているんだ。


濱谷浩の写真が使われた『Shore』のアルバムカバー(左=表面、右=裏面)

―なんとそうなんですね! まさにその前作のツアーが全て終わってから今作の曲を書き始めたとのことですが、それまではいったん音楽制作から離れ、アーサー・ラッセル、カーティス・メイフィールド、ニーナ・シモン、ヴァン・モリソンなど好きな音楽を聴いていたそうですね。リセットしたい、音楽から離れたい、でもまた音楽を作らないといけない、あるいは作りたくなる……そうした逡巡する時間の過ごし方の中から、あなたはどのように新しい曲作りの糸口を掴んでいったのでしょうか? 

ロビン:これまでは、曲っていうのは“自分がその時どう感じているか”を表現するためのものだった気がする。それは僕が好むと好まざると。つまり“今僕はこういう気持ちだ。だから曲を書くと、こういう曲が生まれる”というものだった。でも今回はちょっと違ってたんだ。言うならば、“よし、スタジオに1日8時間行くぞ。そうすることで自分の気持ちを良くさせてみせる。心がワクワクするようなものを作ることで僕の心もワクワクさせるんだ、出来上がったワクワクする曲で”とでも言うのかな。“気持ちがすぐれない、憂鬱だ。それをギターで曲にしよう”じゃなかったんだ。どちらかと言うと僕が舵を取っていた。例えば、気分が悪いからそれをそのまま曲にするのではなく、だったら気持ちを良くしてくれる曲を作れる自分になろうということさ。つまり僕の辛い状況を音楽が助けてくれていたんだと思う。辛い状況を音楽に反映させるのではなくてね。


Kersti Jan Werdal監督による16mmロードムービー、アルバムの音源に合わせて太平洋岸北西部の風景を紹介している。

―なるほど。では、曲作りに向かうその変化と、今作のタイトルでもある『Shore』はどのように紐づけられるでしょうか。前作のアートワークの大台ケ原は「山」……マウンテン・ミュージックを現代に受け継ぎアップデートさせているあなたがたフリート・フォクシーズにとって、故郷シアトルの山々にも繋がるであろう大きなファクターであるその「山」が前作『Crack-Up』のカギになっていましたが、今作は『Shore』……岸辺、沿岸……つまり海を通じて他の場所や他の文化の流入、流出する場所としてとても象徴的な言葉です。

ロビン:ああ、それって良いポイントだね。

―プレスリリースによると、あなたはShoreという言葉を「何か不確かなものの端にある安全な場所であり、自分の下にある安定した地面の心地よさを実感できる場所」として捉えていたそうですが、それはある種、生命の危機のようなものと、生命力そのものを感じさせる場所、という解釈なのかなと感じました。Shoreという言葉にどのようなインスピレーションを、いつ、何をきっかけに思いついたのでしょうか?

ロビン:実はサーフィン中に溺れる寸前の怖い体験をしてね。サーフボードのリーシュが切れてサーフボードも流され、離岸流に入ってどんどん沖に流されちゃったんだ。焦って必死で岸に戻ろうと泳いでしまいーーそれは離岸流ではやっちゃいけないことなんだけどーー過呼吸になり、間違いなく溺れて死んでしまうと思ってた。なんとか岸まで戻ってこれた時には本当にホッとしてね。死の淵から生還したというか。足元に感じた砂の感覚のなんと素敵だったことか(笑)。その経験があってShoreっていうことが頭にあったんだ。死なずに済んだことへの感謝の気持ちと同時にそれから数年は水への恐怖もあったよ。サーフィンもあまり行かなくなってしまい、ようやく水の中に入った時もちょっとしたパニックを感じてしまって、未だにそれは克服しきれずにいるんだ。だから『Shore』っていうタイトルはその時に思いついたんだと思う。無事に戻ってこれたことの安堵感から。『Crack-Up』の時もそうだけど、ふと浮かんだタイトルがその時自分が作ろうとしているものと、それがなんであれ共鳴し合うことってあるんだ。その時以来、タイトルは『Shore』だと分かってた。3つくらい候補があってその中から選んだというわけじゃない。ようやく砂の上に戻った瞬間、“この(タイトルの)アルバムを作る”と思ったんだ。2017年のことさ。

―それは大変でしたね。つまり死を最もリアルに感じた瞬間だったかと思うのですが、一方で、あなたはウォルト・ホイットマンの作品集からの影響も受けたとのことで、今の話を聞いてなるほど辻褄が合うなと思いました。というのも、ホイットマンの『草の葉』(Leaves Of Grass)という作品集に収められている「Good-bye My Fancy」という一編と、今回のアルバムに収録されている「Sunblind」とが私には重なっていて。「Sunblind」はリチャード・スウィフトをはじめ、アーサー・ラッセル、カーティス・メイフィールド、クリス・ベル、ティム&ジェフ・バックリィ……といった鬼籍に入ったアーティストの名前が多く出てきます。あなた自身もサーフィンで死を覚悟したことに加え、友の死、内なる空想の人の死が大きなファクターになっているのではないかと感じるのですが、「死」というモチーフがこのアルバムにどのようにインスピレーションを与えたと言えますか?

ロビン:うん、100パーセントその通り。これは自分のことではないアルバムにしたかった。そして直接的でありたかった。だから1曲目(「Wading In Waist-High Water」)を自分以外のヴォーカルにしたんだ(オックスフォード大学在学中でナイジェリア出身のUwade Akhere)。そして2曲目でようやく僕の声が入る時、僕は「リチャード・スウィフトのために、ジョンとビルのために、デヴィッド・バーマンのために、アーサー・ラッセルのために……」と次々と名前を挙げて行く。そうすることで自分という存在を分散化する。同時にcelebrate(尊ぶ、祝う)するというか……音楽って人の記憶を前進させるじゃないか。音楽はいつまでも残り、僕らは音楽を聴く。大好きな音楽が50年前に書かれたものだということもある。それを作った人の人生は早すぎる終わりを迎えたかもしれないけど、音楽を通じて僕らはまだ彼らから何かを学んでいるし、彼らと共にいられて“どれほどのパワフルな意味があるか”を思い知らされる。特にこの疫病や死が蔓延する時代に、記憶の重要さ、カルチャーとしての記憶の重要さをね。そういった、大きな喜びを僕の人生にもたらしてくれた人たちをcelebrateしたい。僕にとってもだけど、多くの人に大きな意味を持っていた人たちだから。今こそ、僕ら人間はお互いのことを考えるべき時なのだと思う。去年は経済がオーバードライブ状態だった。誰もが“それに追いつかなければ”という感じで、そのためにひたすら生産し続け、我が身しか考えていなかった。少なくとも僕にはそう思えたよ。“この世の中で生き残りたけりゃ、働けるだけ働け”とでも言うのか。ところが今年は次々とひどいことが起き、それに対して僕ら、共同体として、社会として考えなきゃならないんだと思う。そう考えると、今回のアルバムのアイディアの多くがこの時期に生まれたことと無関係ではないわけで……。ああやって故人の名前を連呼することで、音楽に彼らのことをこだまさせたかったんだ、山びこのように。源泉がどこかってことを聴いた人が分かるようにね。



―お互いのことを考えるべき時……死から学ぶことには壮大な生命力を繋ぐことという意味でもあるのでしょうか。歌詞の中に「泳ぐ」という行為が介在していることで「Shore」というアルバム・タイトルにも繋がっていきます。「泳ぐ」という行動は何を象徴するものだと考えますか?

ロビン:ここでの「泳ぐ」は大きな海というよりはどこか池とか湖。安全なところを意味してたんだ(笑)。天気のいい週末に、友達がいっぱいそこにいる……そういう感覚。亡くなってしまった人たちは姿はないけど自分の中にいて……一方で今いる友達……ケヴィン・モービー、クリストファー・ベアー、ホーマー・スタインワイズ……みんな今回、アルバムに参加してくれてるけど、彼らも亡くした友達を自分の中に抱えている。そういういろんな人たちが作っているアルバムということになるのかな。僕はあまり特定の個人のことを書くことはないんだ。でも例えば今回のアルバムでも、友人が話してくれた話にインスパイアされて書いた曲はたくさんある。「I’m Not My Season」はドラッグ中毒の家族の面倒を見ている女友達の話を聞き、どれほどの“慈悲の気持ちというか、他人への思いやり”の気持ちが必要だろうかと思い、彼女の視点になって書いた曲なんだ。他人へ手を伸ばすこと、その人間のために自分がそこにいること、彼らが今いる状況……つまりドラッグ中毒は彼らそのものじゃないということ……彼らには、そしてもしかしたら僕らにも、毎日の日常での状況を越えたところに存在する自分自身の一部がいるのかもしれない……そんな風に友人の話がきっかけになったり、友人のことを思って書いた歌詞も今回のアルバムには多い。ずっと友達に会えていないからかもしれないね。「Jara」は政治活動を熱心に行なっている友人へのリスペクトの思いを曲に託したんだ、遠くから。つまりある意味、音楽は彼らと自分を繋ぐ手段なのかもしれない。特に今は直接、会えていない友人たちとね。


Translated by Kyoko Maruyama

 
 
 
 

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