知らないうちに原子爆弾開発に関わっていた、若き女性たちの真実 米

学歴や職務内容によっては、情報をつなぎ合わせてオークリッジの目的を解明できる人たちもいた。ジェーン・パケットさんは統計学者で、エンジニアを目指していた。だがテネシー大学は女性の入学を認めていなかった。ジェーンさんはオークリッジで「コンピュータ」室の監督係を務めた――そこでは男女が計算器を操作して、最終的にY-12工場の生産高をはじき出していた。80代を過ぎた今もなお、ジェーンさんは男性作業員が自分より給料をもらっていたと不満を吐いていた。


1945年8月29日、テネシー州オークリッジの原爆研究施設で、作業員を前に演説するマンハッタンプロジェクトの主任、レスリー・リチャード・グローヴスJr.少将(PHOTOQUEST/GETTY IMAGES)

ヴァージニア・コールマンさんもY-12工場で働いていた1人だ。財政難と性差別にもめげず、彼女はノースカロライナ大学で化学の学位を取得し、卒業した。就職説明会でオークリッジ行きを決めると、そこには給料のいい仕事が待っていた。彼女も含め、研究所のメンバーはみな自分たちがウランを扱っていることを知っていた――ただし、ウランという言葉は禁句だった。ヴァージニアさんは核分裂のことも知っていて、最近発見されたばかりにもかかわらず、新聞や雑誌や出版物からウランという単語や関連研究が見当たらなくなったのはなぜだろうと疑問に思っていた。1945年8月が近づくにつれ、研究所では使用目的が噂になり始めた。どうやら兵器として使われるらしい。

ヴァージニアさんが短期ながらも待望の休暇を取っていたころ、広島のニュースが飛び込んできた。男たちが原爆投下について話し、オークリッジという場所では誰1人事情を知らないことに驚いていた。男たちの話を耳に挟んだヴァージニアさんは、「あそこで働いてました」と言った。「私は知っていましたよ」。

誰も彼女を信じなかった。

数年後、ドットさんは科学博物館でガイドとして勤務した。ある時1人の女性が近づいてきて、大勢の命を奪う片棒を担いだというのによく生きていられますね、と言われた。

その後ドットさんはハワイへ向かい、兄が命を落とした一番近い場所、真珠湾を訪れた。水面を眺めながら、ドットさんは日本人女性の隣に立った。2人とも赤の他人で、かつて敵として戦った国に暮らし、話す言葉も全く違っていた。2人は涙を流し、互いに向き合って抱擁した。戦争に伴う痛みと喪失が2人の共通点だった。

映画『オッペンハイマー』初日には、私も映画館に足を運ぶつもりだ。だがおそらく私の思いは、知り合えた素晴らしい女性たちの思い出に向かうことだろう。全員すでにこの世を去ってしまった。若かりし日の彼女たちや数千人以上の女性たちは、2つの異なる世界に横たわる時代の流れの一部だった。かたや核エネルギーや核兵器とは無縁の国、かたやそれを免れることができなかった国。「核の冬」「核の灰」という言葉や表現から完全にかけ離れていた国と、それが恐ろしいほど日常化している国。後者は彼女たちが行った作業により誕生し、彼女たちとは全く関係のないところで下された決定で被害を受けた。彼女たちは息を引き取るまでその遺産を抱えていった……望むと望まざるとにかかわらず。

デニース・キーナン氏はニューヨークタイムズ紙のベストセラー『The Girls of Atomic City: The Untold Story of the Women Who Helped Win World War II』の著者。彼女の活動についてはwww.denisekierman.comを参照。

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from Rolling Stone US

Akiko Kato

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